宗春の変革は、失敗だったのか?

◎新政権は前政権の否定から始める

 古今東西、変革を掲げた前政権は、新政権により再度変革されることとなる。アメリカ、韓国、マレーシア……変革は、極めてドラスティックである。政権側も常に、変革途上だから続けさせよ、と主張するから厄介この上ない。かくして政治家は異口同音に変革を訴える。蓋し変革は民主主義の宿命的キーワードだ。ただし、変革が常に良いものとは限らないから、我々は見極める力を養わなければならない。それを培うには自らの経験を含めた歴史に学ぶしかない。

 幕府と尾張家臣の信任を得て藩主となった宗勝もやはり前任者の否定から始めた。

◎宗勝入部後、初の町触

 元文四年五月四日、新藩主徳川宗勝が名古屋城に入ると、同月下旬に奉行所から次のような町触が発出された。ここでは要旨を簡潔に記す。番号は筆者が付した。なお、原文は『名古屋叢書第三巻 法制編(2)』に採録されている。

1.         町人は諸事簡略を旨とし派手にするな。

2.         家の構えは分限より軽く造れ。

3.         衣類は男女ともに美麗であることは好ましくない。古いものを厭わず粗末な服を着ること。

4.         買い占めで値段を吊り上げるな。

5.         婚礼の諸道具・衣類・祝儀の宴も質素にせよ。

6.         贈答は近縁の者以外にはするな。

7.         分限を越えた法要をするな。

8.         分限を越えた寺社への寄進をするな。

9.         家族でない女を家に置くな。

10.     他国から来た座頭・瞽女・比丘尼や奇異な振る舞いをするものを泊めるな。

11.     町人は武士に対し無礼のないようにせよ。特に売子・手代・下人は不埒者が多い。

12.     奉行所は法に従って手心を一切加えない。

 総じて質素倹約に努めよと言っている。9は売春の防止の意図だろうが、10と併せてみると社会的弱者を締め出すものだ。11が興味深い。売子・手代・下人が武士に馴れ馴れしく話しかけることが宗春の治政下では許されていたのだろう。他にも「分限」の文字が見え、身分制の引き締めが改革の要点といえる。

◎ヒューマニズムに満ち溢れた治政

 この触れを逆読みすると宗春治政の頃の町の様子が見て取れるのではないか。

 購買力があるから小細工を弄することなく物価が上がる。儲けた金で衣裳や住居を飾り、知り合いも招いて冠婚葬祭を派手に行う。寺社への寄進は寺社地に集まる恵まれない者の糊口を凌(しの)いだことだろう。旅芸人に慈悲を施す一方で武士も人として対等に見る。奉行所は杓子定規とならず情状を酌む。奇異な者らに対して好奇心を持ち、慈しみに溢れ、金が循環し、諸共に世を愉しむ姿。――これぞまさしく宗春の目指した「仁」に基づく血の通った政治ではないか。

 これが失政とは筆者にはどうしても思えない。

宗春治世下を描いた享元絵巻より

千両箱盗難事件

◎一顧だにされなかった事件

 尾張家市ケ谷上屋敷で起きた千両箱盗難という耳目を引く事件ながら、なぜかこれまでの研究、他の小説で全く触れられていない。このため一般にもほとんど知られていないので「宗春躍如」における記述すべてが創作だと思われないかと筆者は危惧する。史料からこの事件の存在を示し、事件の結果が尾張家中に及ぼした影響を考察する。

 「金府紀較抄」享保十九年

一 当四月下旬江戸市谷御屋敷に而 御金千両箱紛失之由に而 御小性衆小山主膳へ御不審懸り 七月上旬名古屋へ上り 上り屋江入被申て 一家一門へ難義懸り申候

 四月に千両箱が紛失して嫌疑が小姓の小山主膳にかかり、七月に名古屋の揚り屋送りとなり、親族に難儀がかかった、と伝える。ここでは「火付け」ではないし、庶民の「牢」ではなく身分ある科人を収監する「揚り屋」となっている。

後の時代に成立した「稿本藩士名寄」の記述は、感情的かつ苛烈になっている。なお、括弧内は他の箇所から補った。

一 同十九寅五月 於江戸御科之品有之苗字御削(小助と改名)無宿小屋江入置候様ニと被仰出 無宿小屋江入 屋敷被召上諸色等相改差置候筈并諸色ハ御目付御小納戸立合改令封印右屋敷ニ指置番人附置

一 主膳娘并召仕之男女親類之内江引取指置候様ニと申渡有之

一 同年六月 右小助御金盗取其上御殿ニ火を付大罪至極重々不届ニ候仍之土器野ニ而火焙可申付候名古屋町中引渡之儀可申付由被仰出

 享保十九年五月、江戸で罪を犯したので苗字を削り(小助と名を改め)無宿小屋へ入れ置けと(宗春が)命じた。無宿小屋へ入れ屋敷が召し上げられ財産を差し置き、目付小納戸が立合いの下、封印させ、屋敷に番人を付け置いた。

 主膳の娘並びに召使の男女は親類の内へ引き取り差し置くようにと申し渡された。

 同年六月 小助(主膳のこと)御用金を盗み取り、そのうえ御殿に火をつける罪は極めて重い、土師野にての火あぶりを申し付け名古屋町中引き回しを申し付けるようにと(宗春が)命じた。

 こちらは、「千両箱」はないが、御用金を盗み「放火」したとし、苗字を剥奪して無宿小屋に入れたとする。

 宗春の峻厳な命令が記されるが、このあと死刑執行の記述はない。そんな命令はもとから出なかったのだろう。同書は宗春が失脚し罪を赦されない頃に書かれたものだ。当ブログの冒頭から読んでいただければ宗春が人命を何よりも尊重したことは理解していただけるはずだ。そんな宗春が重用した主膳に死刑を命じるわけがない。一方で事件そのものは起きたのだろう。そして主膳に嫌疑がかかる状況があったのだろう。

◎小山主膳の背景

 藩主継友が直々に烏帽子親となった半元服が享保五年だったから享保十九年の主膳は三十歳前くらいか。宗春の代になってからも引き続き小姓で享保十七年から小納戸兼役となった。小納戸は藩主の髪を整えたり、食膳を供したりといいった役なので、藩主の身近に接する機会は格別に多い。

 小山家の家禄は千石。父は既に他界し、現当主は国用人の市兵衛。二男の主膳は小姓に召され、三男は他家へ養子に出された。典型的な三兄弟の配置といえる。

 召出されて間もない世間知らずならともかく、召出されて十三年も二代にわたり最側近の小姓として勤め、今は小納戸兼役という覚え目出度い主膳が御用金を盗み、火付けまでするとは考えにくい。

 嵌められた――謀略があったと筆者は推測する。

 誰が、何のために?

◎縁座による処罰

 事件の翌年、主膳は科人のまま死ぬ。

 「稿本藩士名寄」の続きを引用する。

一 享保二十卯二月十九日 牢死

一 同年三月 小助儀大罪之者之事候故存命ニ而罷在候得ハ火罪ニ被行筈候処令病死候儀候故此上御仕置ハ不被仰付

 大罪だから火あぶりとすべきところだが、病死したから、そうはしなかった、と言い訳がましい。

 「金府紀較抄」では牢でなく上り屋で病死、月も次月となっているが、親類に及んだ影響を伝えている。

一 当三月 小山主膳上り屋に而病死に付 三月十九日右親類中半地に被仰付 叔父四千石織田周防守隠居家督弐千石被下 従兄弟千弐百石小笠原帯刀隠居弟へ六百石被下 叔父番廿石織田丹下隠居弐拾人扶持被下 妹聟七百石中川庄蔵へ四百石被下 寄合被仰付 従兄弟七百石土屋庄左衛門隠居弟へ三百石被下

 親類の家禄が半減され、多くは隠居、御役御免となった。妹聟という姻族、血縁で最も離れるのは四親等の従兄弟まで連座となった。その従兄弟の小笠原帯刀の家譜に母の記載が見つからないが、織田家から嫁いだものと考えられる。当主の年寄役が隠居となり、姉妹の嫁ぎ先に難儀をかける事となり織田家は面目を失った。

◎新参だった織田家

 織田家は言わずと知れた信長の子孫の名家だが、尾張徳川家中となったのは三代藩主綱誠の小姓として織田貞幹が召出されたのが最初だ。当初百石だった新参者は綱誠に用いられてあれよあれよという間に二千八百石の年寄の士大夫となった。子の長恒も継友によって年寄に引き上げられ、宗春代に士大夫となった。

 新参者が重用されて譜代の家臣は、面白くなかったことだろう。織田家二代が政務に長けていたかどうかは定かではないものの、歴代藩主との関わりの古い家柄よりも才を用いる風は、幕府では綱吉代から見えており、当代吉宗の足高の制で制度化されていた。尾張家でも同様の風潮が兆したものと思われる。

 この事件が謀略であったとしたら、結果からは家柄軽視の風潮に掣肘を加えるアンシャンレジームが目的だったと考えられないか。家柄重視の主張は、この事件の十三年後、藩主宗勝に献呈された「士林泝洄」に形となって表れた。御附家老の成瀬家を筆頭に尾張徳川家との関わりの古さで家臣団を階層分けし序列化している。百二十二巻中、織田氏は百十三巻目にようやく登場するのである。

一枚岩ではなかった吉宗政権

◎綱吉仁政の名残り

 「宗春と吉宗が対立した」という視点に固執しているとディテールが見えてこない。そもそも和を以て貴しとなす厩戸王以来の伝統なのか独裁者というものは日本には現れなかった、と書くと批判があるかもしれないが、少なくとも宗春も吉宗も独裁者ではなかったようだ。吉宗は、現実をしっかりと見据えたバランス感覚のある将軍であり、向き不向きを見て使者を選択していたように思える。

 宗春代の尾張家(藩邸以外も含む)への使者を下の表にまとめた。

 当初は老中在任期間の長い松平乗邑が最高格の御使として訪問したが、いわゆる三ケ条の詰問の後は、松平輝貞が多く御使となった。輝貞は厳密には老中ではないが老中格で御意見番といったものだったと思われる。表中の老中を就任の古い順に書き並べる。(数字は享保17年当時の年齢)

松平乗邑 47

酒井忠音 42

松平信祝 50

松平輝貞 68 (老中格)

黒田直邦 67 (西之丸)

因みに吉宗は49歳。使番の滝川元長は71歳。

 後に幕閣に加わった者の方が年上、という不思議な逆転現象が起きている。

 滝川元長を含めて60歳以上の共通点として五代将軍綱吉に仕えていたことが挙げられる。輝貞は生類憐みの心を強く持ち続け、吉宗の方が鷹狩の獲物を与えることを控えたという。先の記事で書いたように直邦は荻生徂徠、太宰春台との交わり深い学者でもあり、領地沼田では名君の誉れ高い人物。

 三ケ条の詰問の後、使者の元長を清戸へ誘ったのは懐柔だろうか。嫡子萬五郎の節句祝いに輝貞が使者となり、その後の尾張家向きお定まりの使者となった。宗春の施政に理解を示す綱吉恩顧の者たち――筆者はここに綱吉も目指した仁政の名残りを見る。

 清戸へ誘われなかったもう一人の使者石河政朝は、尾張家老竹腰正武の実弟であり、後に町奉行となって乗邑の下で公事方御定書の編纂に携わることになる。

◎欝だった宗春

 表中、享保十七年の三ケ条の詰問後の宗春の病気について新たな知見がある。

『稿本藩士名寄』の大寄合野崎主税の項に興味深い記事がある。

享保十六年亥六月廿八日 御朦氣為御尋使被進候 上御礼使相勤候付有徳院様江御目見

 朦氣(鬱病)見舞いに使者が来て、その御礼の使いとなって吉宗に御目見えした。鬱病となったのは誰か?主語がないが「御」朦氣と敬ってあるから宗春以外には考えられない。ところが年が違う。享保十六年六月は宗春は国元に居り、そこに病気見舞いの使者が来たとは考えにくいから、後年提出した野崎家家譜の単純な年の誤記と考えられる。享保十七年、渋谷と加納が見舞いに訪れた宗春の病は鬱病であった可能性が高い。

◎吉宗が宗春に急報

 元文元(享保二十一)年三月の参府直前の駅使による尋問はかなり重要な知らせであったと思われる。なぜなら、これに呼応するように宗春は、新地を一カ所に取り纏めることを道中で令したからである。この令が三月十一日に名古屋に届いたことが「遊女濃安都」に記され、「尾藩世紀」では島田宿で発令したと特定している。さらに、参府し着邸後、吉宗との対面の前に宗春は、道中での令を改め、新地全廃の令を出した。

 つまり、道中に届いた急報は、このまま参府しては宗春にとって良くないことが起こることという忠告だったと考えられよう。令の内容から遡って想像すれば、名古屋の風俗紊乱が江戸に波及しており、厳しい沙汰を求める幕閣からの突き上げがあり、押込もやむなしとした、至急何らかの対策をせよ、という温情ある事前通告だったのではなかろうか。幕府の正史たる「徳川実紀」にとられているわけだから、幕閣の誰かが私的に伝えたものであるはずはなく、吉宗本人からの報せと考えるのが妥当だろう。宗春就任時に二人の間に伝書ホットラインがあったことは「月堂見聞記」にも記されている。

 江戸詰になっていた竹腰正武が藩主押込に対する内諾を幕閣に求めていたと考えられないか。幕閣は御三家の押込を勝手に許可はできないから当然吉宗に伺いを立てた。駅使による尋問は、その動きを知っていた吉宗が垂れた蜘蛛の糸だったと私は考えている。

 正武は参府した宗春に追い打ちをかけ、一カ所でも遊所を残すようでは手緩いと迫ったものと思われる。

 自ら許した遊所の廃止とそれに伴い職を失う新地の者らの行く末を想うと忍び難い辛さがあったろう。一方で吉宗の恩情を裏切るほど薄情な宗春でもなかった。宗春と吉宗、双方とも独裁者ではなかったのである。

太宰春台コネクション

太宰春台と宗春

◎奇を好む儒者

 太宰春台は荻生徂徠の門下の博覧強記の儒学者である。厳しく子弟の礼を求め、大名の子弟にも同様に謹厳であった。その説くところは明快至極。「今の世では金銀を手に入れる計をなすことが急務であり、それには商人のように売買することが一番近道である。領主が金を出して国の土産や貨物を全部買い取って他国で売るのが良い」と明らかに重商主義的な経済思想へ進展=転換している。商人の真似をするな、などとは言わないのだ。

 一方、舞や笛にも秀でていた。京都で放浪中に辻氏から舞の免許状を貰っている。黒田直邦からもらった舞衣をもっていた。笙も吹くが横笛がもっとも得意で名手だった。(「太宰春台」 武部善人 吉川弘文館)

◎露見すれば間違いなく首が飛ぶ上書

 「恐れながら封亊を以って言上仕り候」という書き出しから「太宰純誠惶誠恐頓首々々死罪々々謹言」という上表の形式に基いた享保十八年の上書が今に残る。太宰春台から前年に幕府西之丸老中となった黒田直邦へ宛てたもので、将軍吉宗の失政を諫言すべし、と訴えかける。直邦が腹の据わった人格者であったから良かったものの露見すれば死罪は確実だったであろう。

 内容は極めて辛辣である。それもそのはず、この年の正月には江戸で初めての米屋の打ち壊しが起きていた。幕府の指示で大坂の米相場に介入していた高間伝兵衛宅が襲われたのだ。深刻な状況打開のため春台は真剣である。

 米相場に介入して吉宗が「人民と利を争い候ては、いつとても民に勝候ことあたはず、却って民の怨心を引起し候」、上が利を求めるから家臣も天下万民の事より私利を優先するようになる。この際、「山王、神田以下諸社の神事を先規のごとく執行せしめ、遊女丁、見世物場を故のごとく許され、都て繁雑なる政令を一切に停止せられ候はば、万民欣喜仕」

 これは、宗春の施政に倣え、と言っているようにしか思えないではないか。

◎尾張年寄との接点

 そもそも直邦は荻生徂徠門下で春台にも私淑していた。だからこのような危険な上書も受け入れた。

 宗春と徂徠学の接点については林由紀子氏の研究がある。(「徳川宗春の法律感と政策」『近世名古屋享元絵巻の世界』清文堂)氏が徂徠学との接点があったとする尾張藩士の中に鈴木明雅がいる。享保十四年従五位下朝散大夫になった時、春台から詩文を贈られるほど親しい間柄だった。

 尾張の知恵者として『趨庭雑話』は、次のようなエピソードを伝える。

 章善(宗春)公の時、覇府老衆を以て、御倹約により十年の間、木曽山借用なされたし、とありしに、人々御答にまどひぬ。鈴木明雅答へ奉られけるは、いかにも安き御事に侍れば、山は上納いたさるべけれど、川は入用の事もあるものなれば、御免下されよ、と申上げられければ、其事止みたりとぞ。

 幕府老中から「木曽の木を使わせろ」と言われたところを明雅が「良いですよ。でも木を流して運ぶ木曽川はお貸しできない」と答えた。まるで一休頓智話。これが公式に言い渡された話だとは筆者(大野)は思わない。人々が返答に窮したという部分は、話を盛ったところであろう。思うに元は幕府老中となされた茶飲み話だったと思われる。明雅が冗談話を交わせる仲の幕府老中は、前述の黒田直邦であったに違いない。

◎宗春シンパの老中

 さて、意を決した上書を受けた直邦は、吉宗に諫言したのか?残念ながら、それは記録にないが、この後、禁止だったはずの豊後節が禁制の心中物を上演できたのは直邦の意見があったのではないか、と筆者は考えている。禁制の心中物とは、名古屋発の「睦月連理の玉椿」(名古屋心中)のことである。

 幕府の豊後節取締り方針の曲折は、笠谷和比古氏の「徳川吉宗の享保改革と豊後節取締り問題をめぐる一考察」(『日本研究』 国際日本文化研究センター紀要 第三三集、二〇〇六年)に詳しい。

 「吉宗と宗春が対立した」という硬直化した視点からでは幕府方針の曲折は説明できない。幕閣の中にも宗春の目指す仁政に理解を示す者もあった。筆者は黒田直邦以外にも居たと考えている。

入墨か、半剃りか

◎入墨は極道。タトゥーはおしゃれ。

 オリンピックを機に銭湯の「入墨者お断り」を見直そうという。筆者が銭湯を利用していた京都では倶利迦羅紋紋のおじさんを時々見たものだが、恐怖を感じることはなかった。それが集団になると威圧感も出てくるだろうが、入墨者はマイナリティだった。谷崎潤一郎の書いた張りのある女の白い肌の刺青は想像の中で美しいが、実際に男風呂で見たものの多くは輪郭がぼけて猫か虎かわからなくなって垂れた肉の上にへばり付いて萎びていた。

 タトゥーはおしゃれだという。だが、そこにはもう意を決して墨を入れるという意気地は感じられない。禁煙パッチのように肌からも人は体内に物質を取り込むから入墨は確実に肝機能に影響を及ぼす、と薬剤師から聞いたことがある。それを覚悟でおしゃれする、というのならそれはそれなりに意地ともなろう。

◎罪人の印に

 デザインが単調で二の腕や額に彫られれば罪人の印となる。「享保度法律類寄」(『徳川禁令考別巻』)によると死刑の次の罰となっている。

「巧にては無之、手元に有之分の品、金十両以下の物を盗取、又は軽き品盗出候を被見咎、或は忍入、土蔵なとの戸を明け、又は壁を破り候を被見付、不遂本意候共、都て此類入墨」

 十両以下の物を盗んだか、犯行を見つけられた、あるいは忍び込んで土蔵に入ろうとしたのを見つけられれば未遂であってもすべて入墨、としている。

 消えない、という特徴から享保五年より幕府の刑罰となった。都市では人の流動性が高まり、血縁地縁が崩れ前科を調べる手立てがなかったことで、「人に記す」方法を採用したのだろう。

◎半剃りの刑

 元文二年、七月から十月頃(「金府紀較抄」は七月と十月、「尾藩世紀」は九月)に名古屋で半剃りの刑が始まった。「金府紀較抄」七月二十二日の記事を引用する。

「囚人男五人 女弐人 広小路牢之前に而 男は左 女は右之方 天窓眉共半分剃落し 御追放になる」

 罪人の髪と眉を剃り落として尾張領外に追放する刑罰だ。男は左側だけ、女は右側だけ。丸坊主ならまだしも半分残すのが異様だ。重罪の者はそのまま晒されたと尾藩世紀は伝える。受刑者にはかなりなハラスメントとなったことだろう。その無様さは見た者に強烈なインパクトを与えたと思われる。心中未遂の二人を赦した宗春は残忍な君主に転向してしまったのか?

◎牢に入った小者を側近の物頭に

 宗春の側近の中に前科のある者がいた。浅田市右衛門である。「稿本藩士名寄」(「尾張藩 藩士大全(CD版)」)から引用。

●112-112 浅田市右衛門

▽ 享保三年戌五月廿五日 主計頭様御臺所人被召抱

  金五両御扶持方二人分被下置

▽ 同年閏十月 御切米六石弐人分被成下

▽ 同五年子十月 御臺所人小頭被仰付

  御加増壱石被下置都合七石弐人分被成下

▽ 同六年丑十二御同人様御納戸役所新蔵得分被仰付

  御加増被下御切米拾三石御扶持方三人分被下置

 主計頭は宗春が通春だった頃の官途。子飼いの御台所方として金五両から十三石三人扶持まで順調に昇進してきたのだが、通春が梁川に領地をもらった後に何かをやらかしてしまったようだ。

▽ 同十五年戌五月 尾州江御指登り

  永ク揚屋江入置候様町奉行江申渡

 梁川藩主となったものの牢獄や侍の入る揚屋は持ち合わせなかったのだろう。市右衛門は尾張の牢へ入れられた。その後、尾張を相続した宗春のお国入りの後……

▽ 同十六年四月 出牢被仰付

  千賀与五兵衛知行所江御指遣シ

 市右衛門は牢から出され千賀氏に預けられた。千賀氏の知行所は知多半島の先端の師崎だ。

 そして一年後、めでたく以前と同じ十三石三人扶持で再度召出される。

▽ 同十七年子四月廿一日 御勝手番ニ被召出

  御切米拾三石御扶持方三人分被下置

▽ 同年十二月廿八日 奧御番被仰付

  御切米廿七石二人扶持被下置

▽ 同二拾年卯二月十五日 御小納戸被仰付

  御加増四拾石都合八拾石五人分被成下

▽ 元文弐年巳十二月十九日 御庭御足軽頭

  御小納戸兼役被仰付

  新知百五拾石御足高百五十石都合三百石被成下

 昇進を続け、小納戸兼御庭足軽頭となり三百石の士分となった。

◎時が経てば消える罰

 宗春の下では、罪を犯した小者さえ、悔い改めれば昇進できたのだ。

 「温知政要」の第十六の条。どんな善人も血気盛んな頃には一度や二度の過ちがあるものだ。様々な物事に興味を持つことや好色であるのは古今東西同じである。改めさえすれば過ちはすべて学問となる。

 これは、罪人の再起をも含めたものだったのだろう。

 半剃りになったところで数年の間頭巾の世話になればまた元通りとなる。ちょうどよい反省の期間だ。宗春は幕府が始めた入墨による罪人へのレッテル貼りを避け、時がたてばまたやり直せるように半剃りを行ったのだ。

名古屋が踊る(2/2)

◎盆踊りが中断

 かくして盆踊りが始まった。

「町々踊、古今稀なる賑わい、衣装は様々見事なること也」(「遊女濃安都」)

 あろうことか三日目の十五日の朝、江戸から訃報が届いた。宗春の五女八百姫が去る十二日に二歳で早世したのだった。因みに五月には三女の八千姫が六歳で亡くなっている。城下には触れが廻り、当面十七日までは町中踊りは停止となった。「もう一日あったのに!」衣装を新調した町人らは、不完全燃焼だったろう。単なる中断でなく突然の訃報だったから意気消沈の度合いは大きかったに違いない。

 ところが、それに続いた御触れに彼らは歓喜することになる。七月二十四日と八月一日に盆踊りをやり直す、というのだ。七七日も経たぬ前の盆祭りの催行決定は宗春本人しか出せない。まさに民を慈しみ、自らは忍んだわけである。

 「遊女濃安都」の筆はその時の賑わいを懐かしむ。

「両日、盆中の通りに町々躍り、揚挑燈、掛行燈、美を尽くし、別して本町一丁目三丁目は、両側、京都四条通り両芝居、太鼓櫓の掛行燈、町の中程、大屋根板持の上に置、家々の庇の上に、一枚看板、役者の名を書き、懸行燈、同六丁目中程は、十二月、年中世話事の影廻し致し置き候。同広小路四ツ辻には、古今大なる燈籠、諸見物群集す。京都川原の涼みの賑わいにも増したるべきとの評判。」

 先代からは盆提灯にも火を灯すな、と禁じられていたのに、広小路と本町通の交差点に「大灯籠」が登場し、本町六丁目には「アニメ動画」である走馬灯が月ごとの年中行事を映していた、というのだ。

 

◎下屋敷の面影

 高禄の武家は上屋敷、下屋敷、中には中屋敷を持つものがいた。後に記すかもしれないが、江戸戸山の尾張下屋敷は奇々怪々のテーマパークだった。名古屋の下屋敷も広大な回遊式庭園でその中に茶店や寺社、模擬店などがあり、なかなかの奇々怪々ぶりだったらしい。現在「御下屋敷跡」は生涯学習センター前に史跡の案内板があるだけで他に何の痕跡もないが、その敷地は広大で、南西端が今の名古屋園芸で、北東端は水筒先北交差点に至る。

 黒は現在の施設だ。赤い部分は寺で、今も芸術創造センターの西側一帯には多くの寺が残っている。第二次世界大戦後、小川交差点から南に真っ直ぐな広い道路を通してお墓も移転したために寺域は切り刻まれてしまったが、「法華寺町筋」の通りは今も健在だ。だが、その名は今に残っていない。あの日、あれ程賑わったというのに……。

◎下屋敷でオールナイトで大踊り

さらに踊りは続いた。

先代継友が経費節減のため下屋敷内の一部の御殿を棄却していたが、宗春は、おそらく尾張を相続してすぐに、新築を命じた。それがめでたく竣工し、おそらくその祝いも兼ねて子どもを含む町々の踊り連を招き入れたのだった。

「遊女濃安都」に段取りが詳しく書かれている。前日に町の代表を招いてくじ引きで番を決めたという。

「二十二日朝六ツ時より初り、順々にまかり出、これを相勤める。七十九番までこれあり候」

 二十二日に朝六時から始まって七十九番まであった。

「もっとも、町々だし作りもの、右番付を相印、暁七ツ頃までに終」

 各町の山車や作り物に番号を記したので祭当日の午前四時にやっと終わった、と追記しているところを見ると参加者が書き足したのだろう。番号を記したのはコンペだったからだ。プレゼン前の熱気が伝わってくる。

「法華寺町の寺々に二町三町づつ宿札を打、休息いたし、番選にてまかり出、そのほか、町家にても、代官町・法華寺町上屋敷方へも、縁を以って幕を打、休息所とし、不明御門より鼠壁御殿前御門前迄、茶店大分出、大賑合なり」

 法華寺町の各寺に二三町を割り振って控え所として出番に備え、町家や代官町や法華寺町の上の武家屋敷でも縁台の周りに幕を引き回して控え所とした。屋台の茶店がたくさん出て大賑わいとなった。不明(駿河)門は下屋敷南、鼠壁御殿は下屋敷内の北西あたりにあった御殿の事かと思われる。踊り手は正門から御殿の前庭へ踊り込んだのだろう。

「大人子供も帷子に金紋をき、衣裳に緋純子、島繻子、緋縮緬の類を着て踊申候」(「月堂見聞集」)

 お殿様の御屋敷を訪れるのだから下に着る帷子から金紋入りで赤い緞子、縞の繻子、赤の縮緬など高級な衣装で踊ったという。

「品々作り物、掛行燈、笛、鼓、太鼓、三味線、皆々、自分町より道行打囃子にて参り候。見物群集す」(「遊女濃安都」)

 自分の町から城下を囃しながらまさしく鳴り物入りで来たから、つられて見物も集まったわけだ。

 蓬左文庫の「夢の跡」によれば西国の森右衛門という大男の相撲取りを張りぼてで作って担いだり、将棋の駒の灯籠を頭に載せるといった趣向があったという。

 一等には金二両、すべての踊り連に褒美や尾張家重臣から料理が振る舞われた。以前と真逆の踊りの対応は、がっちりと町人の心を掴んだことだろう。

 明六ツから始まった祭りが終わったのは翌日の四ツ(午前十時)というから、28時間ぶっ続けのダンスコンペティションだった。

名古屋が踊る(1/2)

◎名古屋が踊る

名古屋の夏の風物詩となった「どまつり」(にっぽんど真ん中祭り)は、ウェブサイトによれば高知の「よさこい」にあやかったそうである。どうやら、昔日に名古屋で開催された一大ダンスコンペティションではないらしい。

今から290年ほど前、名古屋で史上空前の大規模な盆踊りが行われた。同時代の記録である「月堂見聞集」によれば名古屋城下175カ所!日を改めたダンスコンペティションは28時間ぶっ続け……。

どまつりの歴史はまだ浅く江戸時代にルーツがあるわけではない。だが、規制から解放されて、囃子に合わせて城下の通りを踊った人々の情熱のDNAは今に続いているに違いない。

◎禁じられた踊り

阿波踊りを仕切っていた観光協会が赤字つづきで徳島市主導となり、総踊りをやる、やらないで内輪もめとなった。踊りを観光の目玉にしようという魂胆がそもそもよろしくない。「……見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」と唄っておいて大掛かりな観覧席を作って損をしてるというのは既に阿呆を通り越している。三十年以上前に阿波踊りのシーズンに行ったのだが踊る場所が無くてがっかりしたことを思い出した。

踊りのスタイルはいろいろあろう。郡上踊りには、見るだけの阿呆はいない。誰でもいつでも同じ踊りの輪に出入りできる。しかも駐車場あたりでは街はひっそりしている。城下町の角を曲がって踊り子の姿が見えると同時に囃子が聞こえるから町々に小さなスピーカーをいくつも配しているのだろう。騒音対策として関東でイヤホンで盆踊りがあるというが、それでは体に響く音がないし、その場の一体感がないだろう。郡上方式を教えてあげたい。

鳴物に合わせて身体を躍動させる踊りは理屈ではない。踊りたいから踊るのだ。踊るなと言われると益々踊りたくなる。事実、江戸時代は踊りが制限されていた。もちろん騒音は問題ではなく、治安維持、風俗紊乱を防ぐためである。

◎異相なる体(てい)を禁ズ

先代藩主の継友治政下の名古屋では、踊りに対する制限が山ほどあった。享保七年の町触(まちぶれ)から禁止の細目を逆に読み解くと当時の庶民の盆踊りに対する創意工夫の情熱が見える。

「装束を拵へ、裏又は家の内は躍り候儀、猶更まかりならず候。芸人を雇ひ物真似などいたし、三味線を入れ、床台を出し、提灯を灯し、其外異相なる体、致すまじく候。かつまた、作花・作物などを持ち候儀、または獅子の舞などいたし躍候儀、まかりならず候。申すに及ばず候えども、他町はもちろん、寺社あるいは諸士屋敷などへまかり越し躍り候儀、堅く仕るまじき事」

 衣裳を作って家の裏や内で踊ってはならない。芸人を雇って物まねなどさせ、三味線を弾かせ縁台を出し、提灯を灯し、その他、普通でない姿をするな。花や小道具などを持って、または獅子舞をして躍るのもいけない。いうまでもないが、他の町はもちろん寺や神社、武家屋敷へ踊り込むのも絶対にしてはならない。

通りを挟んで向かいも同じ町内だったから、町内表とはその表通りのこと。町内裏とは通りに囲まれた1ブロックの真ん中、閑所(会所)と呼ばれた共有スペースで今ではもっぱらタワーパーキングになっている。表でも裏でも踊ってはならぬという。踊りのパワーを怖れる理由は、最後に見える。町人が踊り集まることで高揚し、武家や寺社に祝儀を強要し受け入れられなければ騒動を起こすのではないか、との統治者の怖れがあったのである。

さて、次のお殿様ときたら、普段から鼈甲笠に緋のお召といった自ら異相なのだから、町人の期待が高まらないわけがない。

◎女と青少年を守れ

享保十六年七月八日、期待通りの触れが出た。なお、「をとり」=踊り

「男形をとりの儀、当年は装束・衣類拵え候てをとり候とも、少しも御かまへ無しの候間、勝手次第にをとらせ申すべし、との御事に候」

 男の踊りについては、今年は衣裳を作っても全く構わない。好きなように踊らせよ、との仰せである。

男らは好き勝手にやれとの触れなのだが、実はこれには前段がある。

「盆中をとりの儀、町々女・子ども十四五才より以上の者、町中ならびにその町内表にてをとり申す儀遠慮仕るべく候、若々不埒にても出来申し候へは、その身のためにも宜しからず候間、この段町々女・子どもこれある町申し渡されるべく候、家内裏にてをとらせ申すべく候、その内十四五才よりの内の女・子どもは、只今迄の通り勝手次第に候」

 私は、この件を理解するのにかなり時間を要した。まずは、文字通りを現代語にしてみる。

盆踊りについて、各町の女と子ども14、15才以上の者は、町中や自分の町の表通りで踊るのは遠慮したほうがよい。若し不埒にも出て来ると身のためにならない。これについて女・子どものいる町に伝えよ。家の裏で躍らせなさい。女・子ども14、15才未満なら今までどおり勝手次第とする。

最初の「以上」は以下の間違いではないかと最初考えたが、それでは付帯の今までどおりと付帯する必要が無くなる。そこで「今までどおり」とは何なのかを探したところ、先に引用した享保七年の町触に糸口があった。

「盆中町々にて子ども躍りの儀、常々の衣類にて、町内表に限り躍り候様、年々申し付け候通り」

 規制の厳しかった頃でも子どもによる踊りは表通りで踊って良かったというのだ。可愛らしくて心を和ませたのだろう。

というわけで、付帯部分、女・子ども14、15才未満というのは男女満13才以下の子どもは表で踊っていいよ、と解せる。当時はペドフィリアなどという観念は無かったと思われる。

一方で踊りの遠慮を勧められた者たちも当時の恋情の在り方を考慮すると見えてきた。すなわち、「女と子ども14、15才以上の者」とは若い女と元服前の青少年のことである。若い女の踊りが本人の意思に関わりなく扇情的であったであろうことは想像に難くない。加えて往時は男色を好む者たちにとって青少年の踊りも十分に扇情的だったのだろう。宗春本人がどうだったか定かではないが、衆道を禁止したわけではないことを付言しておく。生産性などと無粋なことを言うはずがない。恋愛も踊りもno reason。それは生が勢いよく燃えて輝く瞬間だ。

赤色に込めた心

◎襤褸は着てても心の錦

昨日の朝方、行方不明の二歳児発見の報には、子どもをしっかりと抱いて歩く、赤のねじり鉢巻きのおじさんの後姿があった。夜のニュース。家に上がるよう勧められても「ボランティアで来ていますから」ときっぱり断った救助者。ボランティアの鑑のような振舞いの頭にはやはり赤のねじり鉢巻き。今日の「ビビット」のインタビューでほころびのあるザックの事を訊かれ、尾畠さん「まだ、新しい。たった38年です。(笑)日本は資源が少ないが、知恵がある」と即応された。かっこいい。物質主義への痛快な一撃。その頭にはやはり赤のねじり鉢巻き。無償の人助けの心意気はどんな花よりきれいだぜ!

 
◎傾奇者と笑われようと

 顔を見せず籠に乗って移動するのが殿様のステイタスだった。家臣にとっては殿様のお目にかかる「御目見え」が済んでいるかどうかがステイタスだったのに、宗春は惜しみなく民に顔をさらした。しかも、古今東西の殿様がやらなかった姿だ。「遊女濃安都」から引用する。白牛を金四百疋=一両で買った、という記事に続いて、

「諸寺社御参詣の節、右白牛に鞍・鐙(あぶみ)置き候て、猩猩緋の装束、時々模様替り候へども、大方は右の通りにて、御衣服、これまた時々替り候へども、つねとても、御頭巾、唐人笠、五尺ばかりの御煙筒御持、奥御茶道衆その先かつぐ」

 参詣の際には白牛に鞍と鐙を付けて、猩猩緋の装束、時々模様は変わるが大方は右のとおり。まとう物もこれまた時々替わるが頭巾、唐人笠、五尺(150㎝)くらいの煙管を御持ちになる。これは先端の雁首を茶坊主が担ぐ。

 頭巾と唐人笠の説明は国入りの部分にある。

「浅黄の御頭巾・鼈甲の丸笠、右笠の縁、二方、巻煎餅のごとく、上へ巻き上がり、唐人笠の如く」

 これは読んだごとく。浅黄と浅葱とは違う。浅葱色の頭巾では鼈甲色と合わない。因みに浅葱裏はダサい田舎侍の別称でもある。

玉手新太郎

 宗春の姿を今に伝える「傾城妻恋桜」絵入狂言本の絵に着色してみた。元の模様は活かしたが千鳥と波しぶきに赤い空ではさすがに合わないが…。

 長い煙管の意味を考えて管の部分が長いことに着目した。竹の管は羅宇:らう(らお)と呼ばれた。元々ラオス産の品が用いられたのが語源とも言われる。

粋な仁者よ

御三家さまは

白いお牛の背に揺られ

鼈甲笠に緋のお召

尾張長らう(羅宇)長煙管

この歌は筆者の創作。さて、宗春の赤(緋)にはどんな決意があったのだろう。

◎家中も染まる

 当主に倣って供回りも派手になっていく。同じく「遊女濃安都」から。

 「所々御成の節、御供廻りの衆中、ならびに御目見の輩、股引・半てん・はばきにて、膝の下、三里灸穴際までこれあり候衣服、両袖下、脊縫下、七八寸ほどわり、火打をひらひらと付、尤、火打紅縮緬、紅どんす(中略)思ひ思ひに出立、その花やかなる事、筆書にも言葉にもいひたらずと也」

 御成りの際、下士も上士も股引・半纏・脚絆でひざ下まで丈がある衣服の両袖下や背縫いの下の部分を二十数センチほど割って赤い裏地を付けて火を打つように目を奪う。紅縮緬、紅緞子など思い思いに仕立て、その華やかなことは筆舌にも尽くしがたい。

 やはり、ここでも赤が目を惹く決め手となっている。

◎街中に溢れる赤

 後の江戸の街を描いた「熙代勝覧」では赤は子どもの着物か女帯くらいだ。リクルートスーツのように目立たない色で質素倹約に恭順の意を示していた町人たちは、殿さまや家来衆の赤をどう思っただろう。

 宗春治世の享保元文期の名古屋を描いた図が享元絵巻だ。

 図は七ツ寺あたり。一見して赤い着物が目立つ。名古屋に赤が溢れ、見た目が華やかになり、町人も嬉しそうだ。もう自分を隠す必要はない。派手な着物で目立って良いのだ。

 傾奇者、奇矯だ、と笑われようと白牛の上の紅一点は、規制撤廃の強い意志と共に町人にしっかり受け止められ城下の隅々まで急速に広がったのだった。

好奇心を解き放て

◎人は新し物好き

 Eスポーツがアジア大会のデモンストレーション競技となる。ゲームのやり過ぎはダメ、と言われていたのに選手は一日十数時間没頭するらしい。一昔前はTVばかり見ていてはダメ、一億総白痴化と言われたものだが、今はTV離れという。変われば変わるものだ。蓋し人の興味の的は次々と移っていくのだろう。江戸時代、芝居は風俗を乱すからダメ、と興行が制限されていた。

◎執政を遣わし芝居解禁

 それまで名古屋には芝居の常打小屋がなく、芝居地や興行期間も制限されていた。尾張家中の芝居見物は享保八年から禁止されていた。それを宗春は緩和どころか一気に規制を撤廃し、若者には、一度は見るように、と薦めさえしたのだった。宗春代の出来事を複数の者が書き足した「遊女濃安都」から書き出す。

「芝居の入口に、刀差・冠物にて見物無用と札打ち置き候所、五月朔日に、御側同心頭成瀬豊前守殿上意を蒙り、芝居芝居の右札、御自身直に指図にて取られ…」

 芝居小屋の前に「刀差しや編笠など被り物の者は見物禁止」と書かれた制札を五月一日に側同心頭の成瀬大膳が上意によって自身が出向いて札を取りさらせた、というのだ。『新修名古屋市史』は「大脇差を差した武士を芝居見物に行かせた」とするが、これは「遊女濃安都」の以下の宗春が言ったとされる部分からの解釈と思われる。

「役人どもへ仰せ付けられ、札御引かせ遊ばされ候へども、それにては諸士見物苦しからずの趣、立ちがたき候に付き、大脇差遣られ候」

 つまり、小役人に札を引かせたのでは、(小者だけでなく)士分の者も芝居を見物して良いという趣旨が伝わりにくいだろうから、宗春の最も大きい懐刀(ふところがたな=大脇差)の成瀬大膳を直々に行かせたのだ、という意味と解すれば遊女濃安都の記述と符合する。

 前にも引いた「月堂見聞集」にはさらに詳しい様子が書かれている。

「成瀬大膳は(中略)殿様仰せに、所々宮寺に刀脇差の札外聞悪しき候、取り申すべく候の御事ゆえ、年寄衆へ此儀尋ねなしに、馬に乗り大勢の家来召し連れ、所々宮寺へ札を取りに廻り申され候」

 執政の大膳が宗春の直命を受けて尾張の重職に相談することなく、馬で家来を引き連れて神社や寺の芝居地の札を取って廻った。

 執政による制札の撤去とは何とも分かりやすく迅速な規制撤廃方針の表明ではないか。驚きを以て噂は広がり、宗春の目論見をはるかに超えて京までしっかり情報が伝わったということになる。

 成瀬大膳は、宗春失脚の折には、潔く執政を辞したようだ。(ブログ「宗春を追い落とした家臣たち」参照)

◎大名初のマニフェスト「温知政要」

 宗春は思い付きで芝居を解禁したわけではない。名古屋入りを前にした三月に記したマニフェスト「温知政要」に既にあった。

写真(「温知政要」河村秀根本、名古屋市鶴舞図書館)で見えている序文の二行は

「古より国を治め民を安ん

ずるの道は仁に止ること也とぞ」

 訳すまでもなく仁政を行うことの表明である。序文の最後にはこれが「誓約の証本」であると明記しているから、禁止事項を列記する法度ではなく自らを戒めるマニフェストと言えよう。見返しに大きく赤く「慈」と記したのは太陽のように家臣、領民を慈しむ決意を込め、最後の「忍」は辛いことは独り月のように耐え忍ぶ決意を込めた、と続く条にある。

 「温知政要」の二十一の条目の要旨は以下のとおり。なお、原本には数字はない。

一、大切にするのは「慈」「忍」の二文字。慈しみで陽の光のように下々まで照らし、辛いことは一人で心の内に耐え忍ぶことを誓う。

 ――心の内の悩みを表に出して近習にあたった兄達を反面教師とした。

二、慈悲は武勇や知謀に勝る。

 ――武勇の信長、知謀の秀吉の後に幕府を開き今日まで代を重ねている家康の慈悲の心の優越を例に説く。

三、政と刑罰について。政は誤ったら改めれば直るが、人への刑罰は取り返しがつかないことがあるからよくよく吟味すること。

 ――試行錯誤も厭わない思い切った施政開始の宣言である。大罪を犯人一人の所為(せい)とせず、その背景を吟味し政の誤りこそを正していかなければならないという決意の表れだ。

四、初心を忘れない。最初は賢君と称えられたいと努力するが、慣れてくると私欲に溺れてしまう。

 ――秦の始皇帝、唐の玄宗皇帝を例に戒めている。

五、学問の目的は、生まれつきの本心を失くさず心を素直にし、行いを良くすることである。学問を積むことによって邪まな知恵をつけ人を誹り馬鹿にするようになってはならない。

 ――人の上に立つ者は慈悲憐憫が第一の学問であると付言している。

六、適材適所。能力を発揮できない者は、役を申しつける上司の判断に責任がある。才気があり弁舌が巧みでも心がねじけている者は、国の害である。才能がない者でも律義であればそれだけで徳である。

 ――才より心が何より重要であるとする。

七、ひとりひとりの好みを尊重しよう。自分の好き嫌いを他人に強いてはいけない。喜び悲しみに共感する思いやりを持とう。

 ――多様であることに寛容であれ、とする。

八、多い法度は、人から気力をそぎ、心を狭めいじけさせてしまう。瑣末な法令は撤回し止めるべきだ。法度が少なければ背く者が減り心優しくなる。

 ――瑣末な法度を乱発した享保の改革への批判である。

九、倹約が過ぎてやたらと省略するばかりでは粗悪なものが増えて作り替えねばならず、結果として勿体ないことになる。あらゆるものには価値がある。要不要を厳しく吟味し過ぎると多様性が失われ品質も下がる。作る者への利益となるものならば高くても良いものを永く使おう。

 ――これもまた質素倹約への明らかな反対表明である。

十、善政への改革でも臣民の協力と盛り上りがなければ成し遂げられない。

 ――理屈だけでは社会は動かず、風潮が重要であることを心にとめる。独善の君子でなく、傾奇者と嗤われても大向うの評判を取るという決意である。

十一、自分の勤めるべきことさえ怠らなければ心が苦しむことはない。寒い目にあわなければ暖かさを知ることはない。

 ――子どもを甘やかして育てることに警鐘を鳴らす。

十二、神社仏閣での見世物や茶屋などを許可する。繁盛し人が集まり騒動が起こるからといって免許を停止するのは軽々しいことである。騒動の原因が侍の方にあれば侍をしっかり処罰する。そうすれば政が信頼され風俗もよくなる。

 ――身分を超えた楽しみの共有を目指す。

十三、万事に関心を持て。他の地域の者と逢ったら風俗・土地・山川のことを訊(たず)ね、そこでとれる物の善し悪しまで興味を持つようにせよ。

 ――産業の振興には情報が重要というわけである。

十四、すべての芸能や技芸は奥深いものである。自分が未熟であると謙虚であらねば上達は望めない。

 ――芸能者や職人が芸を極めようとする姿勢に対して尊敬の念を持つ。

十五、若者に異見する際は頭ごなしにしてはいけない。自らの若い時のことを思い出し相手の言い分も認めて言い聞かせること。

 ――若者に共感する姿勢が大切という。

十六、どんな善人も血気盛んな頃には一度や二度の過ちがあるものだ。様々な物事に興味を持つことや好色であるのは古今東西同じである。改めさえすれば過ちはすべて学問となる。

 ――前項同様、若者の再起を見守る寛容な視線は、過ちを繰り返した自らの半生の肯定でもある。

十七、倹約だからといって人を減らしては万一の備えとならない。火事などの急な折に少ない人数を防火や道具の避難など多方面に分散させては機能せず死傷者が多くなってしまう。どれだけ高価で尊い宝物でも軽輩一人の命には代えられないことを肝に銘じよ。

 ――人件費の抑制が人命を損なうことに繋がってはならない、と人命尊重を高らかに宣する。

十八、下々の者の思いを知らねばならない。実情を身をもって体験しないとどんな慈悲の心も届かない。但し、物の値段までも知るようになっては下々が痛み苦しむようになる。

 ――米の相場操縦に熱心な八木(はちぼく)将軍吉宗を暗に非難している。

十九、国を治める者は人や国に利益のあることでも急に行えば動揺が起き思うようにならないから時間をかけて行うべきだ。但し、人の痛みや難儀に関わることは速やかに改め直さねばならない。

 ――だから皆、長生きしなければならないという。

二十、改め、直すことがすべて良いことだとは限らない。諸人の意見に耳を傾けねばならない。

 ――改革への想いが強い自らへの戒めであろう。

二十一、上から下まで私欲を捨て正しい筋道に叶うよういつも考えを巡らせよ。譜代の家臣、代々の藩主に取り立てられた家臣にも平等に憐憫を加えなければならない。

 ――部屋住みの頃、自分への仕打ちに不満を持って恨みを持ったことをあさましい心として反省している。江戸へ来た年に死んだ朝倉や金森への詫び事にも聞こえる。

 いかがだろうか?私は初めて読んだときに目を疑ったものだ。啓蒙君主しかもリベラルな考えが横溢しているではないか。

◎夢を育む政治

 温知政要というタイトルを真正面から論じたものを私は未だ知らない。政要は政治の要点で間違いなかろう。温、知を使った四字熟語は温故知新が有名だが、それが上記の斬新な考えに相応しいとは思えない。

 私は、温をincubateのイメージ、「そのままを大切にして温める」ことだと考える。すなわち、人々がもっと知りたいと思う気持ちを大切に育むことではないだろうか。知らないことを聞きたい。新しいものを見たい。それを「見てはならん聞いてもならん」と法度で押さえこんでしまっては、心が塞いでしまい、人は育たない。機会を与えてこそ、その生まれ持った立派な本性が花開くのである。それは勉学だけに止まらない。珍しい味。香(かぐわ)しきもの。恋というものもしてみたい。生きる活力の元である種々の欲望、すなわち夢を育むのが宗春の政治の要点だったのではないだろうか。かくして宗春の治政を振り返る書は「夢のあと」の名があるのだろう。

 蓋し宗春はロマンチスト過ぎたのだろう。だが、その想いには、パンとサーカスで庶民の気を惹く小賢しい昨今の政治が失ってしまった根源的人間の精神の解放があったのではないだろうか

犠牲は無用

◎千金の宝物も人命には替えらえない

宗春の著したマニフェスト「温知政要」で火事への備えについて書かれた条がある。

 火災の際にすぐに集まることができる人数が意外に少ないことを念頭にして、

「多からぬ人数を方々へわけて、火も防がせ、道具の支配も致させ、いろいろのことに使ひては、いずれの方の間も合わず、死傷の者多くできるよりほかあるまじ。たとひ千金をのべたる物にても、かろき人間一人の命にはかへがたし、これらの類、皆々上たる者の勘弁なく不裁許より起る事なり。」

 少ない人数の者らに、やれ延焼を防げ、やれ伝来の道具を守れ、などと色々なことを命じてはそれぞれ中途半端となり死傷者が多く出てしまうであろう。貴重な道具であっても軽輩一人の命に替えることはできない。こんなこと(道具を守るために命を賭すこと)は上に立つ者に弁えが無く判断を示さないところから起こるのである。

 上に立つ者、すなわち宗春自身への戒めと読める。人命優先は今でこそ当然のことだが、敢えて書かれているということは、当時は当たり前ではなかったからだ。

◎「腹蔵」の美談

 先年上演された「染模様恩愛御書」は、いわゆる血達磨物といわれる歌舞伎演目だ。血達磨と聞くとプロレスの流血のように血まみれになる状態を思い浮かべるが、話の基になったのは肥後細川家に伝わる血染めの達磨の軸の由来譚だ。細川綱利に恩義のある大川友右衛門が江戸藩邸の火災の折,家宝の達磨の掛軸の焼失を防ぐため切腹して腹中に収めて守ったという。史実としてはかなり怪しい。腹に入る掛け軸は相当小さいだろうし、そもそも血まみれになっては守ることになるのだろうか。だが、ここでは史実であるかどうかは当面重視しない。命を賭して伝家の宝物を守ることが忠義である、と当時一般に考えられていたかどうかが肝心だ。血達磨物は、正徳二年、京都布袋屋座で「加州桜谷血達磨」として上演されたのがその始まりとされる。すなわち宗春が温知政要を著した時にはすでに細川の血達磨の話は人口に膾炙していたと考えられる。

 この共通認識に立って、宗春は、蔵番のような軽輩であったとしても宝を守るために命を捨てさせてはならない。美談として称賛するから命を落とすものが後を絶たないのだ。軽々に命を捨てるは忠義にあらず、というのだ。

◎犠牲は美しく見える

 私たちは不用意に災害による死没者の事を犠牲者というが、犠牲という言葉には元来、何かの目的のため、という前提がある。共同体の望みを叶えるために動物の生贄や人身御供がなされた。捨身飼虎、贖罪、と宗教に取り入れられて犠牲は崇高な文化となってしまった。「銀河鉄道の夜」「幸福な王子」……自己犠牲は退廃的で甘美ですらある。容易に人の心を惹くから、滅私奉公、御国のために桜のように散れと戦意発揚に利用された。

 決して昔の事というわけではない。犠牲バントは原語からの和訳とはいえ、犠打で一死、と続くと犠牲と死の結びつきは強固となる。命がけで頑張ります!体を張って頑張った。……犠牲を顕彰する伝統は今なお私たちの中に根強く残っていると気付く。犠牲心溢れる人を褒め讃えるのは、村のためにマンモスと闘って亡くなった者を讃えた原始の血が騒ぐのだろうか?あるいは隣の部族と闘って戦死した勇者を神に祀り上げて若い戦士を鼓舞するためなのか?

 国家主義が性懲りもなく勢力を増してきた昨今。「主君のため」「御家のため」に犠牲になるな、命をささげる必要はないという宗春のメッセージは今も新鮮だ。

 今後は、戦争の犠牲者といわず、単に戦没者、被害者と認識すべきだろう。 

◎席次のどん尻

 宗春治政から半世紀以上後の享和年中の成立とされる「尾州家官制」は、藩中の席次を示したものなのだが、役名だけではない。成瀬、竹腰の両御附家老から始まり…

六百に近い役と門閥家名が入り交じり序列が定められている。

 蔵を管理する御蔵方は最後に、しかも字下げされて記されている。宗春は、この家臣中序列最下位の「かろき人間」の命をも尊重したのだった。のみならず、門閥でない家臣をも積極的に登用した。家臣だけではない。領民を同じ人として見た殿様だった。…その証左はまた後日。