鳥と宗春

◎高田祭

 平成三十年五月二十日、養老町の高田祭に行った。宗春と縁のある軕(やま:車篇に山)の本楽が行われるのだ。すでに巡行は始まっていたが、程なく目当ての軕に追いついた。道の両側にはすでに屋台が軒を連ねて仕込みにかかっており、軕が差し掛かると長い庇をひょいと跳ね上げる。怒号が飛び交う殺気立った雰囲気ではなく、綱持つ引手、楫(かじ)棒に体を預ける楫取り、羽織の町衆も余裕をもって毎年繰り返される祭りの光景を楽しんでいるように見受けられた。

 現在、高田祭りで巡行する三輌の軕は岐阜県の重要有形民俗文化財に指定されている。お目当ての林和靖軕は全国で高田祭りだけに残るからくり人形で、宗春の人となりを知る上で特に重要だと私は見ている。

 午後になってからくりの本楽が奉納された。菜の花を啄(ついば)む鶴を唐子が叱って追い払うが林和靖が宥(なだ)める。鶴が羽を広げ唐子が正面を向き林和靖が軍配を挙げて大団円となる、といった物語になっている。微笑ましい春の風景を伝えている。

◎東照宮祭 林和靖車

 高田祭りの人形の来歴は定かではないが、林和靖がからくり人形として本邦初登場となったのは享保十八年四月のことだった。宗春二度目の国入りに当たるこの年の東照宮祭は、「遊女濃安都」によれば家臣の騎馬隊に続き星野織部が宗春の名代として加わり三四町も行列が続く賑やかさだったという。これに合わせて伝馬町の車が新調された。

 内藤東甫の「張州雑志」の口絵を見ると林和靖、唐子、丹頂鶴、花をつけた梅の木と高田の軕と同様の構成になっている。高田の方は林和靖の上着に亀甲を用い、伝馬町は横幕にそれを用いて亀を表わし、鶴との目出度い取り合わせとしている。ただ、伝馬町の籠にあるのは高田のような菜の花ではないようだ。確かに菜の花は梅の花とは少し季節がずれる。

 名古屋まつりのわらべうたに「猩々酒飲む、鶴は芹」とあるが、絵には何種類かの植物が描かれているようだ。芹といえば七草の一つ……この籠盛りは春の七草ではなかろうか!

◎林和靖

 林和靖は北宋の隠遁詩人で妻帯せず梅と鶴を愛して一生を過ごしたという。貞享三年には日本でも「和靖先生詩集」が茨木多左衞門によって刊行されており、宗春の時代にもよく知られていたらしい。

 七草は日本の風習ではないかと調べてみたら、中国には「七種菜羹(しちしゅさいこう)」という七種類の野菜を入れた羹(あつもの)を食べて無病を祈る習慣があったそうだ。これを一月七日(人日:人を殺さない日)に行ったという。

 私は、伝馬町の町衆が慈しみの政治を目指す宗春を賞揚し、林和靖の姿に仮託したのだと考える。

◎殺生は無用

 享保代に京の本島知辰が綴った「月堂見聞集」に次のような記事がある。

「御前御機嫌の節見合せ、成瀬隼人正、御国の御政道古来よりの咄(はなし)畢(おわり)て、御慰(おなぐさみ)に鷹狩に御出(おいで)しかるべしと申し上げられ候へば、御請け遊ばされ、後日御出の朝、御城へ隼人正を召され、殺生は無用、それより諸士共に武芸を嗜み申すべき由仰せ出でられ、隼人正は私宅へ帰り、数々の名鷹を放し、在所犬山へ引越し、久々出城仕らず候」

 御附家老成瀬隼人正が新藩主に御政道の伝統を滔々と語り聞かせて、御機嫌取りに鷹狩に誘うと宗春は受けた。そして鷹狩の朝、隼人正は狩り装束で登城しただろう。ところが宗春は「殺生はならぬ」と鷹狩を拒否した。隼人正は自分の飼っていた鷹をすべて放し、領地の犬山に引っ込んでしばらく登城しなかった。

 いかにも宗春らしいではないか。生きとし生けるものの命を慈しむ。一旦請けたと見せて、厳しく返すのは「三ケ条の御咎め」の際と同じだ。

 一方で隼人正の行動は解せない。鷹狩を否定されたぐらいで引き籠るだろうか。

 宗春は、部屋住みの頃の遺恨を込めて厳しく隼人正を叱責したのではなかろうか?

◎詰め腹となった直臣

 名古屋の日記魔、朝日文左衛門の「鸚鵡籠中記」では萬五郎(宗春の幼名)について触れた箇所は二箇所しかない。通春(当時の宗春の名)が江戸へ発った折に文左衛門が見送った正徳三年四月六日の記事と同年閏五月のものだ。後者を引用する。

「萬五郎様に附下り候朝倉平左衛門。今月二十三日に自害す。吐血頓死と披露す。(中略)平左衛門前役金森数右衛門も、萬五郎様の御供して、市ケ谷の御休息へ入り、帰り吐血頓死」

 朝倉平左衛門は自害したが喀血頓死と発表され、それに先立って金森数右衛門が市ケ谷からの帰りに喀血頓死していた、ということが読み取れる。私は、二人の死に通春が大きく関わっており、朝倉の自害は詰め腹で同役金森の死と関連があると考える。(文左衛門は「前役」金森としているが、その前に「萬五郎様に附下り候朝倉」としているから同役と見るのが適当だろう。)通春の懇願にもかかわらず冷酷に朝倉の詰め腹を主張したのは、当時既に家老だった成瀬隼人正正幸であったのではなかろうか。

 最高権力者の悪行は記録には残りにくいが、「尾藩世紀」が宝永三年七月二十五日の記事で成瀬正輝(正幸)隼人正が身持軽浮で、下屋敷で自ら下手人を斬首したり、願い無く鹿猟をしたりしたことで戒められた、との風説を伝える。犬公方こと綱吉が将軍であった頃のことだ。

 科人であっても軽々に命を絶ってはならない、と隼人正に自省を迫り、慈悲憐憫の政道を示し、命を弄ぶ鷹狩を否定した。因みに鷹狩で最高の獲物といえば鶴だというが、元来、鷹は鶴を狙わない。本性を捻じ曲げられた鷹にも憐憫を加え、放せ、と命じたのであろう。

 長きにわたって赦されなかった恋多き後家本寿院の謹慎を解いたのもこの時だったかもしれない。恋は人の本性なのだから――その思いは既に「温知政要」で明確に宣言されている。

◎永久の春

 宗春の、そして伝馬町の町衆、現在の養老の町衆のお蔭で今も見ることができる林和靖のからくりは、物語こそ定かではないが、「長閑な春の慈しみの情景」を今に伝えている。いわば時代を越えた3Dアニメシステムだ。宗春本人のからくりを山車に載せるのは当時の町衆には畏れ多くてできなかった。

 白牛に乗った宗春のからくり人形は、今、大須観音にあるが、もし、当時宗春本人に提案したとしら気安く許されたことだろう。あり得ないことではない。白牛に乗って長煙管に鼈甲笠の殿様が登場する芝居「傾城妻恋桜」の上演を許したくらいだから。だが、それも束の間で第九代藩主宗勝への代替わりで、結局人形は廃棄され今に伝わることはなかっただろう。やはり林和靖に仮託した町衆の選択が大正解だったというわけだ。

 仮託したという証拠をもう一つ。「張州雑志」の林和靖の内着を今一度見て欲しい。隠遁者に不似合いな鮮やかな色。鼈甲笠に長煙管で白牛の背に揺られた殿さまのお召と同じ緋色。往時の町人はそこに宗春の姿を重ね見て慈悲深い殿様に期待しエールを送ったのだろう。