【なごや新地巡り】富士見原

◎江戸時代のスーパー銭湯

 スーパー銭湯の発祥が名古屋という話を調べてみたら、名古屋コンベンションビューローのウェブサイトは「1985年の高岡市が一番古い」とあっさりとその座を譲っている。それ以前からヘルスセンターという複合温泉施設は存在しており、何をもってスーパー銭湯というかあいまいではある。銭湯を中心とした複合遊戯施設と定義すれば実は名古屋が日本で一番古い。それは享保十七(1732)年夏のこと。

 ◎ソワレもOK

 西小路、葛町と同じく享保十六年に開設された遊所の富士見原は、中区下前津交差点の南、橘と富士見町あたりにあった。富士見と言っても富士山は見えない。

北斎は富嶽三十六景の尾州不二見原で大樽の間に富士山を描いているが、全くの創作だ。

 ここは不思議な遊所で様々な地図が伝わる。

 「名古屋錦」及び「夢之跡」から作成され、明治の名古屋市史に使われた地図が「なごやコレクション」で公開されている。

 猿猴庵による「尾陽戯場事始」の挿絵は地図の北西角から俯瞰したもの。猿猴庵は後の時代の人なので大袈裟だったり、間違っていたりすることがある。

 わざわざ夜芝居と書いているのは、当時の芝居がマチネーのみだったからだ。夜の興行は許されていなかった。右側に矢倉があるのが芝居小屋。花火を打ち上げることができたのも立地のお蔭。既に寺社や町家が建て込んでいた西小路とは違い耕作地(下図では白)が周囲に広がっている。花火見物で足元を見ないから肥溜めに落ちる者があった、と遊女濃安都に記されている。

徳川宗春治政下の三遊所(西小路・葛町・富士見原)

 地図をよく見ていくと(人形)福引とか遠眼鏡とか面白い店があるが、割愛して、南端を拡大する。

 中央に「入湯」とある。別の地図には「薬湯」とも書かれる。「月堂見聞集」に「有馬の汲み湯と申し立て」とあるのがこれなのだろう。まさか直線距離で150km離れた有馬から本当に湯を運んだとは思えないが、本当だったら箱根から湯を運ばせた家康の上を行っている。周辺には蒲焼、酒肴、田楽その他色々・・・とナイトバザールの様相。東には「二階作り貸座敷」があり、猿猴庵の絵の奥の方に風呂屋と共に描かれている。猿猴庵が南北に長い地図に基いて描いたことが推測できる。

 ◎在地資本が京阪からの遊女を抱えた

 先日、西尾市岩瀬文庫で見た寛延三年に写された地図は東西に長く、翻刻された「遊女濃安都」に掲載された地図に近く、引用した地図と趣を異にする。著作権の関係でここに出せないのが残念だが、地図上に記された文を抜粋転記すると

開地享保十六辛亥年号富士見原当地永安寺町八郎右衛門家取立始而此所ヘ翌十七壬子年春移ル家三軒立八郎右衛門則改富士見屋外日野屋若松屋右三軒也京大坂より遊女共罷越繁昌吉田より華火取組夥布賑合ニ而有之

 享保十六年に開かれ富士見原と号した。名古屋の永安寺町の八郎右衛門が家を建て始め、翌年春には富士見屋と名を改めた八郎右衛門の他に日野屋、若松屋が建って、京都や大阪から遊女が来て、吉田(豊橋)からの花火が半端なく打ち上げられ大いに賑わった。

 富士見原の南は空地が広かったようで、お大尽の二階座敷に始まり、貸席、涼み台とそれぞれの分に合った楽しみ方ができたようである。花火の観客は堀を越えて富士見原の南に群集していたらしい。

 ◎花火の仕掛け人は酒屋

 「遊女濃安都」は次のように伝えている。

長者町和泉屋権右衛門方へ、三州吉田より客人有之、富士見ヶ原にて花火揚候由、風聞申出、今日古今の賑合、前津田畑を踏荒、押合へし合、溝川は勿論、肥壺へ落るもの夥し。花火、さのみ替事なき流星玉火計なり。

 長者町の和泉屋権右衛門に三河吉田から客人があって、富士見原で花火をあげたそうで、聞くところによれば、未だかつてない賑わいで、(観客は)前津の田畑を踏み荒らして押し合いへし合いして、堀や小川に落ちる者、果ては肥溜に落ちる者も多くあった。花火はとりたてて変わったところのない流星玉ばかりだったけどね。

 上長者町の和泉屋権右衛門は酒屋である。先に引用した地図の文から三河吉田の客人とは花火師というのがわかる。つまり書き手は和泉屋が富士見原の花火の仕掛け人だとほのめかしている。それはさぞ酒も売れたことだろう。これが隅田川花火大会より一年早く富士見原では花火大会をやっていたわけである。

 いわゆる同伴で登楼する前、風呂上りに座敷を借りて遊女と花火で一杯酌み交わすといった島原にも吉原にも無い肩肘張らない遊びがここにはあったのだろう。

 もはやスーパー銭湯の範疇には納まらない……これは統合型リゾート?それでもギャンブルだけは御法度だった。