千両箱盗難事件

◎一顧だにされなかった事件

 尾張家市ケ谷上屋敷で起きた千両箱盗難という耳目を引く事件ながら、なぜかこれまでの研究、他の小説で全く触れられていない。このため一般にもほとんど知られていないので「宗春躍如」における記述すべてが創作だと思われないかと筆者は危惧する。史料からこの事件の存在を示し、事件の結果が尾張家中に及ぼした影響を考察する。

 「金府紀較抄」享保十九年

一 当四月下旬江戸市谷御屋敷に而 御金千両箱紛失之由に而 御小性衆小山主膳へ御不審懸り 七月上旬名古屋へ上り 上り屋江入被申て 一家一門へ難義懸り申候

 四月に千両箱が紛失して嫌疑が小姓の小山主膳にかかり、七月に名古屋の揚り屋送りとなり、親族に難儀がかかった、と伝える。ここでは「火付け」ではないし、庶民の「牢」ではなく身分ある科人を収監する「揚り屋」となっている。

後の時代に成立した「稿本藩士名寄」の記述は、感情的かつ苛烈になっている。なお、括弧内は他の箇所から補った。

一 同十九寅五月 於江戸御科之品有之苗字御削(小助と改名)無宿小屋江入置候様ニと被仰出 無宿小屋江入 屋敷被召上諸色等相改差置候筈并諸色ハ御目付御小納戸立合改令封印右屋敷ニ指置番人附置

一 主膳娘并召仕之男女親類之内江引取指置候様ニと申渡有之

一 同年六月 右小助御金盗取其上御殿ニ火を付大罪至極重々不届ニ候仍之土器野ニ而火焙可申付候名古屋町中引渡之儀可申付由被仰出

 享保十九年五月、江戸で罪を犯したので苗字を削り(小助と名を改め)無宿小屋へ入れ置けと(宗春が)命じた。無宿小屋へ入れ屋敷が召し上げられ財産を差し置き、目付小納戸が立合いの下、封印させ、屋敷に番人を付け置いた。

 主膳の娘並びに召使の男女は親類の内へ引き取り差し置くようにと申し渡された。

 同年六月 小助(主膳のこと)御用金を盗み取り、そのうえ御殿に火をつける罪は極めて重い、土師野にての火あぶりを申し付け名古屋町中引き回しを申し付けるようにと(宗春が)命じた。

 こちらは、「千両箱」はないが、御用金を盗み「放火」したとし、苗字を剥奪して無宿小屋に入れたとする。

 宗春の峻厳な命令が記されるが、このあと死刑執行の記述はない。そんな命令はもとから出なかったのだろう。同書は宗春が失脚し罪を赦されない頃に書かれたものだ。当ブログの冒頭から読んでいただければ宗春が人命を何よりも尊重したことは理解していただけるはずだ。そんな宗春が重用した主膳に死刑を命じるわけがない。一方で事件そのものは起きたのだろう。そして主膳に嫌疑がかかる状況があったのだろう。

◎小山主膳の背景

 藩主継友が直々に烏帽子親となった半元服が享保五年だったから享保十九年の主膳は三十歳前くらいか。宗春の代になってからも引き続き小姓で享保十七年から小納戸兼役となった。小納戸は藩主の髪を整えたり、食膳を供したりといいった役なので、藩主の身近に接する機会は格別に多い。

 小山家の家禄は千石。父は既に他界し、現当主は国用人の市兵衛。二男の主膳は小姓に召され、三男は他家へ養子に出された。典型的な三兄弟の配置といえる。

 召出されて間もない世間知らずならともかく、召出されて十三年も二代にわたり最側近の小姓として勤め、今は小納戸兼役という覚え目出度い主膳が御用金を盗み、火付けまでするとは考えにくい。

 嵌められた――謀略があったと筆者は推測する。

 誰が、何のために?

◎縁座による処罰

 事件の翌年、主膳は科人のまま死ぬ。

 「稿本藩士名寄」の続きを引用する。

一 享保二十卯二月十九日 牢死

一 同年三月 小助儀大罪之者之事候故存命ニ而罷在候得ハ火罪ニ被行筈候処令病死候儀候故此上御仕置ハ不被仰付

 大罪だから火あぶりとすべきところだが、病死したから、そうはしなかった、と言い訳がましい。

 「金府紀較抄」では牢でなく上り屋で病死、月も次月となっているが、親類に及んだ影響を伝えている。

一 当三月 小山主膳上り屋に而病死に付 三月十九日右親類中半地に被仰付 叔父四千石織田周防守隠居家督弐千石被下 従兄弟千弐百石小笠原帯刀隠居弟へ六百石被下 叔父番廿石織田丹下隠居弐拾人扶持被下 妹聟七百石中川庄蔵へ四百石被下 寄合被仰付 従兄弟七百石土屋庄左衛門隠居弟へ三百石被下

 親類の家禄が半減され、多くは隠居、御役御免となった。妹聟という姻族、血縁で最も離れるのは四親等の従兄弟まで連座となった。その従兄弟の小笠原帯刀の家譜に母の記載が見つからないが、織田家から嫁いだものと考えられる。当主の年寄役が隠居となり、姉妹の嫁ぎ先に難儀をかける事となり織田家は面目を失った。

◎新参だった織田家

 織田家は言わずと知れた信長の子孫の名家だが、尾張徳川家中となったのは三代藩主綱誠の小姓として織田貞幹が召出されたのが最初だ。当初百石だった新参者は綱誠に用いられてあれよあれよという間に二千八百石の年寄の士大夫となった。子の長恒も継友によって年寄に引き上げられ、宗春代に士大夫となった。

 新参者が重用されて譜代の家臣は、面白くなかったことだろう。織田家二代が政務に長けていたかどうかは定かではないものの、歴代藩主との関わりの古い家柄よりも才を用いる風は、幕府では綱吉代から見えており、当代吉宗の足高の制で制度化されていた。尾張家でも同様の風潮が兆したものと思われる。

 この事件が謀略であったとしたら、結果からは家柄軽視の風潮に掣肘を加えるアンシャンレジームが目的だったと考えられないか。家柄重視の主張は、この事件の十三年後、藩主宗勝に献呈された「士林泝洄」に形となって表れた。御附家老の成瀬家を筆頭に尾張徳川家との関わりの古さで家臣団を階層分けし序列化している。百二十二巻中、織田氏は百十三巻目にようやく登場するのである。

殺人と謀反の噂

◎宗春、女中殺しの場

 前に宗春は人命最優先と書いたが、少し宗春を齧ったことのある人からは、「本当にそうなの?女中を刺し殺したとか、軍備を整えて大規模な軍事演習をやろうとしたと聞いたことがあるよ」との指摘があるかもしれない。小説や学術的な書物にも史料批判無しに引用されるからこのような間違いが起こる。後世の雑本の記事はネタとしてかくいう筆者も使っているが、宗春の本質に反する事については看過できないので釘を刺して置きたい。

 まず、女中殺しの出典は「趨庭雑話」だ。

「章善公(宗春)へ、何れの諸侯やらん、書簡を参らせしを、公、窃(ひそ)かに読み居たまひし所へ、出頭の御女中、御うしろより流目してすぎければ、御手早く其書簡懐中し給ひしが、其夜、彼女中御伽せられしに、夜深く寝入りたる所を、御枕刀にて刺殺し給ひしとぞ。是を以て、その御志シの程を押しはかるべしと、御物語也」

 宗春が書簡を密かに読んでいたところへある女中が後を流し目して通り過ぎた。宗春は手早く懐に仕舞ったが、その夜、その女中に夜伽をさせた際に寝入ったところを刺し殺した。近習に「我志を押しはかれ」と語った。

 まるで忠臣蔵一力茶屋の場のようだ。遊女お軽が由良助の読む密書を手鏡で覗いて、気付いた由良助に殺されそうになる、という場面にそっくりではないか。「趨庭雑話」は尾張家で語り継がれた噂話を後の世にランダムに集めた書物だ。残念ながらその多くは藩士の夜話で語られた与太話であろう。蟄居謹慎となったのは将軍と覇を争った結果だと強がりたい家臣の気持ちはわかるが、内容の信憑性は乏しいと言わざるを得ない。

◎大丸へ具足四万領発注

 平成二十二年の大丸と松坂屋の合併には感慨深いものがあった。京の大文字屋が大丸と名乗ったのは名古屋の出見世が最初だ。当初、その現金、掛値なしの新しい売り方は松坂屋など茶屋町の呉服店との間に軋轢を生じていた。そこへ登場したのが誰あろう尾張家当主となった宗春だった

 『大丸二百五十年史』によれば明治二十一年に発行された「大丸屋騒動実記」に次のような記述があるという。

「彼吉原御全盛の御遊はじめ此度御国入に付、御衣裳のご用は皆大丸屋がご用勤めしとぞ。是にて非常に売徳を得し。尾張宗春卿には、御国入の後小牧山にて御鹿狩の思立にて其旨仰出されければ、(中略)国中の勢子、ご家人など都合四万の人数用意致すべしと仰出されけるが、此度のご用向諸式すべて大丸屋彦右衛門へ仰付られける。因りて大丸屋は手分けをなし、先ず銅(胴)の黒塗に、丸に八の字印しの陣笠、皮具足、小手、すね当、鉄鎖の肌着等四万人前、はっぴ小印、陣羽織、幕等何一つ落なく御用を承はれば、彦右衛門のいそがしき事たとふるに物なく、遂に夫々手順よく、七月下旬までに皆残らずこしらへ上げて納めけり。」

 吉原での遊びや御国入りの際の宗春の衣裳は皆大丸屋が納入し非常に儲かった。御国入りの後、小牧山で鹿狩りを行うとのことで、尾張国中の勢子や家臣の家来の具足四万人分すべてを大丸屋が受注した。手分けして黒塗りの胴、丸八印の陣笠、皮具足、小手、脛当、鎖帷子など四万領や付随する法被、陣羽織、陣幕等残らず受注した彦右衛門の忙しさと言ったらない。それでもついに七月下旬には皆残らず仕上げて納品した。

 地元の呉服屋は面白くなかっただろうが、大丸屋でも下請けは名古屋だったはずだ。なにせ三ヶ月足らずで四万セットを納品しなければならないから、全数を京へ発注していたら連絡や運搬の時間でとても間に合わなかっただろう。

急がせたものの小牧山で大規模な牧狩りが行われた記録はない。そもそも遊びで鹿狩を行うのは、殺生を嫌って鷹狩を止めたことと矛盾する。いずれにせよ、この発注が軍備を整えたという噂の元だと考えられる。だが、発注の中身は具足のみで武器はない。一揃えを一両で見積もれば四万両、時価にして四十億円を市中に還流する財政出動が目的だったのではないか。さらには、既得権益にしがみつく地元の商人でなく、現金掛け値なしの公正な商いスタイルを行う大丸を応援したのかもしれない。

◎吉宗と宗春は即レス?

 倹約と規制緩和という正反対の政策や最後に蟄居謹慎となったことから吉宗と宗春が反目して対立していたという観点から語られることが多い。だいたいは宗春が敵役のやんちゃな御三家として描かれる。ところが同時代の随筆「月堂見聞集」によればこの二人は親書を交わしていたというのだ。

「尾州中将宗春卿御家督御相続相済候処、御心入寛仁に御座遊ばされ候、将軍家と御中能(なかよく)、御直筆にて、毎日江戸より名古屋へ、御状箱往来御座候、右御状江戸御年寄衆、名古屋御年寄衆拝見仕(つかまつる)事成り申さず候。」

 中将として書かれているから家督を相続して間もないころ、すなわち享保十六年の初めてのお国入りのことと考えらえる。右筆を介さず、重臣らが見ることのできない状箱に入った手紙が毎日往来したという。毎日書いたというのではなく、返信をすぐに書いて毎日飛脚が東海道を走っていた、ということだろう。この頃の二人の仲は決して悪くはなかった、と見てよいのではないか。

宝泉院遺品 松橘蒔絵長文箱(徳川美術館「徳川宗春」図録より)

◎磨りガラスの遠眼鏡

 「月堂見聞集」には、この他にも興味深い記事がある。著者の本島知辰は京にあってなぜ知り得たか?情報入手の手段は記事の末に書き添えてある。

「右の書付、尾張御家中より申来候由」

 他の記事も知辰は、私見を加えず、見知ったことを淡々と書いている。浅学ゆえその背景はよく知らないが、尾張家中に血縁者か俳句仲間がいたのだろう。いずれにせよ、「月堂見聞集」は公開を目的としない同時代の随筆であり史料的価値は極めて高いといえよう。

 一方、先述の「趨庭雑話」にある女中殺しの話は、信憑性を欠き、多くの憶測を生んだ。宗春の輪郭をぼかす磨りガラスでしかない。これでは歴史望遠鏡のレンズにはならないばかりか、宗春の人となりの究明にとって妨げでしかない。