春日野の正体

◎吉原の遊女で藩士の子

 数多い宗春の側室の中で「おはる」は異彩を放つ。吉原の太夫あがりで親が尾張藩士であるという。

 金府紀較抄より宗春失脚後の側室の処遇の記事を引用する。(字下げ・改行は筆者)

 一 宗春公 御女中之内御出頭之分大勢有之候内 

江戸に而

海津殿

民部殿 此御両人御子在り

いつみとの

尾州に而は

左近殿

相模との

おはるとの なとと申して一二を争う衆に而候

 出頭は主君に寵愛を受けた者をさす。多くの女中の内、特に寵愛を受けたのがこの六人で、おはるは尾州に居住していたとする。

 同書は「おはる」について次のように記す。

おはるとのは元は吉原太夫に而 春日野と申候由 是は親鈴木庄兵衛 御預け御下屋敷東辰巳町之内屋敷へ被引越候

 「おはる」殿は吉原の太夫で源氏名を春日野といい、親である鈴木庄兵衛に御預けとなり下屋敷の東の辰巳町の屋敷へ引っ越した。

 鈴木氏の屋敷は現在の名古屋市東区の千郷町交差点の北角にあたる。

 藩士がどういうわけで娘を吉原に出したのか?それほど生活が苦しかったのか?と最初は疑問に思った。

◎異例の女郎

 春日野という女郎は、吉原に実在したのだろうか?幸いなことに吉原では毎年、見世ごとのメンバー表が発行されていた。吉原細見である。

 以下、『日本書誌学大系』72 吉原細見年表(青裳堂書店)の「付論」から引用する。

 享保十八年細見「浮舟草」角町右側「すがたゑびや惣十郎」見世に

 ツキ出し

 かすがの

  禿 こまつ

    小さヽ

 かすがのは、見世の三段目に書いてあるから新人と思われる。

 「突き出し」は多義で①新造、引込などを経て一人前の遊女となること。②禿を経ないでいきなり遊女となった者。著者の見解は①

 禿(かむろ)とはお付きの少女で高級遊女(当時は太夫)に見習いとして付くのが一般的であり、突き出しの春日野に付くのは異例である。

  次に同著が指摘する享保二十年発行の吉原細見「志家位名見」を引用する。

(写真は『遊女評判記集(下)』勉誠社より)

上上吉 春日野 角丁 すかたえひや宗十郎内

▲大ふり袖ニてよび出しとならせ給ふハ定めて能(よい)御客御の御さ(座)候か 御名のかすがのハ春殿とやらん とかく御ぜんせい(全盛)日ヽ月ヽの御ばんぜう(万丈) 是ぞゑびやの白ねづみ 先ハ姉女郎衆より先に置まス

 上上吉:遊女の格、最上級

 角丁:角町(すみちょう)。吉原五町の一つ。

 すかたえひや:姿海老屋。海老屋の屋号は他にもあったから紋で区別した。

  大振袖の生娘で呼出となられたのは、よほど良い御客がいらしたか。名の春日野は春殿の春とやら。とにかく客が多く日々意気盛ん。これぞ海老屋の(大黒様を招く)白鼠。まずは姉女郎より先に書いて置きます。

 先に挙げた金府紀較抄の記事と符合し、まさにこの「春殿」が宗春と比定できる。上上吉の上にあるのは比翼紋だろうか。そとの囲みが宗春独自の花環三つ葉葵紋と似ている。

 余談だが、この宗春葵は一般には「藤縁の葵紋(藤輪之御紋)」と呼ばれるそうだが、三つ葉と繋がっているのだからこれはやはり葵の花と見るべきだと私は考える。実際の葵の花と比べてみよう。

徳川宗春専用紋

 

葵(カンアオイ)の花

 葵の花は春の連休頃、葉陰にひっそりと地味な色で咲く。三弁の花の形が宗春の紋と同じではないか。

葵の花クローズアップ

 閑話休題。

 細見の話。この細見の作者は春殿が宗春だと知って書いたのだろうか?筆者(大野)はそうは思わない。吉原細見は、後年に書かれる回想録や匿名の書き手による落書とは性格が異なり、末尾には出版者が明記して版行され広く売られるものである。御三家と知っていてゴシップめかして書いたと判れば不敬ともなり相応の罪を覚悟しなければならない。藪をつついて蛇を出すようなまねはしなかったと思われる。この細見が出版された享保二十年頃には、まだ春殿の素性は分かっておらず、正体不明の大尽と思われていたのではないか。宗春は町人に身を窶(やつ)して吉原を楽しんでいたのであろう。

 変身願望は古今東西かわらない。「王子と乞食」ではないが、本当のセレブは庶民の暮らしを肌で体験したいものなのだろう。殿様のままでは周りが忖度して真心を通じ合えない。一方、遊女もいわば自作自演の女優で、柳沢淇園の「ひとりね」にもあるようにわっちは世が世ならどこぞの姫様で……というように身の上を作って語る。そんな納得ずくの騙し合いの中で、たまさかきらりと光る真実が見えてしまったら……、自分にしか分からないなどと思い込んだら……恋の深みに足を取られる。現代の恋愛と何ら変わらない恋の駆け引きだ。

◎結婚は錦の御旗?

 ここで遊郭通いをしていた宗春の弁護をしておきたい。

 恋をするのに何も遊郭へ行く必要はない、と現代人は思うだろうが、当時は自由な恋愛が許される世の中ではなかった。町で娘に声をかけようものなら不埒者=犯罪者として袋叩きにされるだろう。

 そうであっても古今東西、性風俗に従事する者や客を白い目で見る者は多い。自らは真っ当に結婚して一夫一婦である、と。

 NHKBS「天国からのお客様」という番組で立川談志ロボットが警句を吐いた。「結婚なんてもんは、長期契約売春だ」

 さらに法政大学総長の田中優子氏は「江戸の恋」(集英社新書)の中で現代の恋愛を次のように批判する。

 「結婚は良い条件で生活するためのものであり、性はその道具であると、性を釣り餌にする考え方は、一方で娼婦を軽蔑しながら、もう一方で性を生活の道具にするという意味で娼婦と同じなのだが、『結婚』を隠れ蓑にするので自分はそれに気づかないのである。いやな生き方だ。」「生きるために必要がなければ結婚はしない方がいい。生きるためにする結婚は『身を寄せ合って生きていく』ということ。貧しいけれど幸福な記憶は、その『身を寄せ合っている』という言葉で言い尽くせるような気がする。必要のない結婚は『好きだ』『愛している』という理由づけばかりになり、江戸の言葉で言うと『浮気結婚』になった。」

 独立して生計を立てることができれば結婚という制度には拘らなくていい。結婚は貧しい者のためにある、というご意見とみた。結婚と言わず「所帯を持つ」と言い換えた方が共同で生計を立てる感じが出て良いのかもしれない。

 ここで終わっては結婚を隠れ蓑とする人たちに救いがないから福音を一つ。思うに最初はどうであれ、逆境になっても寄り添う気持ちが芽生えれば、きっとそれで良いということなのだろう。イエスキリストに従った罪深き女(マグダラのマリア)は守護聖人となったのだから。

 ◎吉原の女郎を身請けした大名

 浮気結婚を許さなかった江戸の社会。大名でさえ女郎を身請けすれば非難を覚悟せねばならない。

 三浦屋の高尾太夫を身請けしたと伝わる三代仙台藩主伊達綱宗は、万治三年、隠居を強いられた。

 宗春謹慎後となるが、寛保元年、姫路藩主榊原政岑は、吉原の三浦屋の高尾太夫を身請けし、蟄居となった。

 安芸広島藩主浅野吉長は、吉原の遊女を身請けしようとしたところ、正室が腹を切って諫死したという。吉長は身請けを思い留まり、幕府からのお咎めを回避できたと伝わる。因みに宗春の謹慎を言い渡しに来た使者の一人でもある。

 いずれも事の真偽は定かでないが、いつの頃からか世間に以下のような認識があったことを物語っているのではなかろうか。

 そもそも吉原が参勤の武士の無聊を慰めるために家康が設置を赦した場所だから、大名の吉原通いは大目に見る。だが、女郎の身請けは一線を越えた放蕩であり、大名は家中から譴責され幕府から謹慎を命じられても致し方ない。

 宗春もこのことは承知していたから一計を案じたのだと思う。

◎父を藩士とするウルトラ技

 春日野の父、庄兵衛は「士林泝洄続編」に記載がある。

元文二年巳十一月 乾御殿詰被召出賜俸四十石

 召し出されたのが元文になってからの新参者である。翌年には息子の庄次郎が出仕する。

元文三年午三月 被召出為奥御番賜俸四十石

  宗春が春日野と見知ったのが享保二十年より前だから随分と後の召出しになる。しかも庄兵衛の父は系譜に無く、庄兵衛が初の尾張藩への出仕者だ。鈴木庄兵衛家は譜代の尾張藩士の家系ではない。つまり、藩士の娘と偶然吉原で知り合ったわけではなかったのである。

 問題は、身請けして側室として藩邸の奥へ入ったタイミングである。吉原細見に春日野が登場するのは享保二十年までなので、その後すぐに宗春が落籍し、その後、春日野の縁者を尾張藩へ召出したとするのが一つの考え方だが、これでは家中と幕府からの譴責を覚悟せねばならない。

 春日野を細見には載せずとも妓楼に囲い者として置いた可能性はないだろうか。筆者は春日野を側室に迎える前に父と弟を召出したのだと考える。

 吉原の女郎を身請けする場合、そのまま請けるより安上がりの方法がある。金儲けに執心する妓楼の亭主も親からの身請けの申し出には比較的少ない金子で手を打った。これを親請けという。

 まさか御三家様が経済的理由からではなかろうが、宗春は親請けという制度にヒントを得たのではないだろうか。すなわち、既に藩士となった親に親請けさせた上で、改めて家臣から主君へ側室として勧め、選入するという方法である。直近の身元は女郎ではなく藩士の娘となり、姑息ではあるが一応理屈は通る。女郎は年季が明ければ遊廓奉公という過去にとらわれずどこへでも嫁ぐことができるのである。

 何が契機で押込となったかは定かではないが、「主君『押込』の構造」で笠谷和比古氏の説くように元文三年五月下旬、宗春は押込となった。国元では旧制に復する命がだされ、徳川実紀には九月になって宗春が再出勤となる。

 翌、元文四年正月、宗春が蟄居謹慎を命じられたのは、この春日野が原因と考えられる。裏付ける史料として老中の松平乗邑の失政を批判した「倭紂書」七カ条の冒頭の二条を挙げる。
一、尾張殿遊女春日野を請出し候節不埒之事
一、榊原式部大輔遊女高雄を請出し候節不埒之事
遊女の落籍は、レッドカード!一発蟄居謹慎の流れを主導したのは松平乗邑だった。

敢えて正室として迎えず 謎の美女阿薫

阿薫和歌集

◎部屋住みは辛いよ

 尾張藩主の弟たちが最初に迎える妻は側室と相場は決まっている。なぜなら当主に万一のことがあれば御三家当主に相応しい正室を迎えなければならないからだ。宗春の兄の継友は藩主となってから摂家の近衛家の姫を迎えた。吉宗も紀州藩主となってから伏見宮の女王を正室に迎えている。紀州家は二代藩主光貞の正室も同じく伏見宮の女王だ。一方、尾張家三代の吉通の正室は摂家の九条家だった。御三家の序列では尾張が上なのに、正室の出自は逆転しているのだ。

◎女王の格上を娶る

 皇女しかない、と宗春は考えただろう。筆者は、享保十六年に適齢の皇女を探してみた。中御門天皇の第一皇女は、まだ十一歳。先代の東山天皇には存命の皇女なし。さらに一代遡ると仙洞御所の霊元上皇。するとただ一人独身の皇女が見つかった。しかも十八歳。二歳で婚約したが、翌年、相手の死去で破談になった――幼将軍家継の婚約者八十宮だ。親王宣下があって吉子内親王となっていた。宗春は尾張相続の前から意識していたのではなかろうか。娘の名は八百姫、八千姫という。

◎吉子は兄嫁の叔母

 宗春の兄の吉通の正室の瑞祥院(輔姫)は九条家から輿入れした。その母益子内親王は後西天皇の第十皇女で霊元天皇の猶子となって九条家に嫁いだ。吉子と姉妹ということになる。つまり、兄嫁である瑞祥院にとって吉子は叔母に当たる。九条家には吉通の娘の千が嫁いでいる。一度は徳川と縁づいた皇女でもあり十分に話を進められる素地はある。だが、歴史上、吉子内親王は享保十七年に出家するのだから、当初は悲恋として描こうと考えていた。宗春の側室を調べていた際、とあるウェブサイトで気付く前は……。

◎享保十七年十月の符合

 「尾張藩の殿さま列伝」作家の藤澤茂弘さんのサイトで宗春の側室阿薫(おくん)の和歌集があることを知った。阿薫が特別な側室だったことが分かり想像が膨らんでいった。今こうしてブログとしてウェブサイトに残しているのは、市井の研究者への還元のためだ。

 本人の死後に冷泉宗家、為村、為泰といった歌の上手の添削による四千二百首が編まれた「阿薫和歌集」は、鶴舞図書館河村文庫と蓬左文庫にある。

 河村文庫本の伊藤将親の後記。

宝泉院阿薫芳負禅定尼諱は華子和泉と称す猪

甘氏にして其先近江の人成りはじめ織田家につかへのち

豊臣の家臣と成り両家滅亡の後都に出て代々処士たり

父を宗貞といふ母は鈴木氏正徳五年乙未三月十六日に父

の家に生れ給ふ享保十七年壬子十月

章善院殿の殿内に入給ふ

尼公容儀すぐれて婦徳をおさめ小星の光おはす

公御国務の時より位遁れ給ふ後まで左右に侍りて

采蘩の助けまします

戴公殊に其労を賞し意を給ひ品秩およそ夫人の

礼に准じさせ給ふ

今の殿に成りても厚遇亦同じ

 阿薫の諱は華子、和泉。家は猪甘(いかい)氏、近江の出で織豊の家臣だったが後は都で代々浪人だった。父は宗貞、母は鈴木氏の出。正徳五年に生れ、享保十七年十月に宗春の側室となった。容貌優れて、徳があり、きらりと光るものがある。宗春が藩主であった時から隠居の後まで側にあり夫人としての務めを果たした。宗勝は特にその労を賞でて正室同様に遇した。宗睦も同じく厚遇している。

 隠居後も側室の中でただ一人連れ添った特別な側室であったことを語っている。

 さらに注目すべきは奥に入った年月――享保十七年十月。これはまさに吉子が出家したとされる年月と符合するのだ。因みに吉子の生まれは正徳四年八月二十二日で阿薫は一つ下となる。

◎せめて御殿ぐらいは用意したい

 御三家に相応しい正室を迎えた!と天下に公言するわけにはいかない。大らかな万葉の頃「安見児得たり」と手放しで嫁取りを喜んだ鎌足とは状況が違う。正室とすれば出自を問われる。宗春は名を捨てて実をとったのだ。自ら希求していた体面を保つための、あるいは家格を上昇させるための婚姻を深く省みただろう。以降、宗春は正室を迎えようとはしなかった。

宗春の失政に数えられる一つに乾御殿がある。乾というから城から北西にあるのかと考えたが、適当な御殿地はなかった。おそらく場所は円頓寺の北、尾張の支藩高須家の屋敷地と考えられる。高須家は江戸住まいで領地である美濃高須に来ることがなく、名古屋に来ることもなかったから館はなかったものと思う。二之丸御殿や広大な下屋敷があるのに、なぜさらに御殿が必要だったのか?――位の高い女性を迎えるのに新御殿を建てるのは当時の常識だ。批判的な家臣は高須家を相続した義淳(後の宗勝)に注進したことだろう。理由を明らかにできない宗春の胸の内はいかばかりだったかと思い遣られる。

 果たしてこれを知っていた家臣はいなかったのだろうか?

◎儒者の暗号

 実際に縁組に動いたのは家臣だったはずだから知る者はいたはずだ。知っていて、伝えたいのだが、あからさまに伝えることができないとき、人はどのようにメッセージを残すのだろう。

 実はこの項を書き始めて改めて阿薫和歌集の序文を見ていた時にそれを見つけた。序文の作者は岡田挺之。またの名を新川、仙太郎という儒者で藩校明倫堂の教授を勤めた。

 同書のマイクロフィルムからの複写で状態が悪く、特に下の部分は所蔵印と重なって判読しづらいのでトリミングした。後記と同時にカラー写真で撮影させてもらえばよかったと後悔している。

 一行が十九文字に揃えて書いてある。岡田挺之の版行されたものは漢文でも一行の文字数が揃っていないものがある。とくに文末を示す「也」は、前行の字数が多くなっても行末に押し込めている。また、漢文で序文に残すのは作者の出自や業績など――ちょうど前述の後記のような内容が常套と思うのだが、この序文は雰囲気が異なる。和歌三神に数えられる衣通姫(そとおりひめ)と六歌仙の小野小町とを挙げ女流歌人から書き出している。出自は後記よりあっさりと猪飼氏、諱は華子とある。

 七文字ずつ区切って末を読むと「咎無くて死す」と読めるいろは歌や伊勢物語のかきつばたの折句は有名だが、漢詩にも折句のようなものがあり蔵頭詩といい、頭文字を拾うと意味があるという。この序文は漢詩ではないが、大切なメッセージが隠されている。

 読者はもうお判りだろうか?頭文字で「仙洞也」と読める。仙洞御所――吉子が生まれた御所であり、仙洞様は永らく吉子の父霊元院を表していた。六歌仙と書かず「六仙」としたり、艶めかしさが漂う「洞房窈窕」を敢えて使ったりして頭文字を無理矢理合わせた感を筆者は抱くのだが、漢文や岡田新川の研究者による分析を待ちたい。

(追記)

 蓬左文庫の蟹江本を確認したところ、同じく仙洞也と読めた。異なる点もあった。

1.題が「阿薫和歌集」となっている。

2.宗春の死去を「公薨」でなく「公捐館舎」としている。

3.「冷泉家」で平出を用いている。(敬って改行している)

4.録而蔵于家の助字「于」がない。

 天明五年は謹慎が解かれる前だったから薨去の字を使うのが公式には憚られたものと思われる。よって蟹江本は公式に献呈されたものと考えられる。蟹江本は原本でありそれを写した宗春恩顧の者が書き写した際に「薨」と直したのだろう。

 追記:

上記にさらに論証を加え出典を明示し、学術論文「徳川宗春側室阿薫の出自」として『郷土文化』第74巻第1号(通巻232号)にて発表した。

「徳川宗春側室阿薫の出自」(eBook)