星野織部と藤堂見好

◎小姓から五千石の年寄に

 星野織部といえばと徳川宗春の寵臣としてあまりに有名、と思っていたが、現時点でwikipediaのページすらない。まずは、『稿本藩士名寄』を元に経歴を記す。

星野則昔  長之助 常四郎 此面 軍之右衛門 仁左衛門 藤馬 弥右衛門 司馬 織部 夢夕

星野七右衛門三男

年寄役  高五千石

妻ハ藤堂出雲娘隠居後離縁

一 正徳元年八月廿六日 新規 御目見

一 正徳三年五月廿一日 万五郎様御小性として召出

一 享保五年十月十二日 主計頭様御徒頭 御小性兼役

一 同十年八月廿八日 御用達並役

一 同十一年三月十二日 御用達本役

一 同十三年二月廿一日 御馬廻組

一 同十六年七月十二日 奥組

一 同年九月十九日 御歩行頭

一 同十七年正月十一日 御用人 都合八百石

一 同年二月六日 御側同心頭 都合千石 同心七騎

一 同年八月廿一日 年寄役 都合弐千石 同心都合十三騎

一 同年十二月廿八日 都合四千石

一 同十八年十二月廿九日 同心都合十五騎

一 元文二年正月十五日 同心都合二十二騎

一 同年十一月十九日 都合五千石

一 同四年四月十九日 隠居

  知行五千石の内八百石を同姓弥右衛門へ相続 生年が不明だが、「尾藩世紀」によると享保二〇(1735)年十二月晦日に年男の役を勤めた、というから翌年に三十七歳となる年男と考えると元禄十二(1699)年生まれで、宗春の三歳下ということになる。

 隠居後称した「夢夕」が「夢の跡」と重なって古を懐かしむだけの余生を送ったかに思えたものだ。

◎家老、老中、年寄、執政の違い

 織部が年寄となったわけだが、要職を表す他の名称とどんな関係になるのか?

 一般的に老中と言えば幕府の要職で大名の家臣のトップが家老という認識と思われるが、尾張家に関する文書には家老、老中、年寄が要職を表す肩書としてよく登場する。同一の人物でも文書によって様々だし、史料が書かれた時代によっても違っているので一概に言えないが、筆者は下記のように使い分けている。

家老:成瀬、竹腰両家の当主に無条件に与えられる尊称。「御家老」と呼ばれる。

年寄:門閥家から選ばれる諸職の第一。だが「御年寄」とは呼ばれない。

老中:家老と年寄による評議体。個々のメンバーは「御老中」とも呼ばれる。

執政:老中の中で政務を取り仕切る執行役で、宗春の執政は成瀬大膳。他の老中は監査役。あるいは留守居として決済する。

加判の列:門閥家でないゆえ年寄の役に就任できないが最高意思決定機関のメンバーとして藩主が認めた者。継友の代の横井豊後守。幕府なら柳沢吉保か。

 名古屋市史には、成瀬、竹腰両家当主を「両家年寄」ともいう。両家年寄の下に、石河、志水、渡辺三氏の万石以上の年寄あり。家督の順を以て席を定む。両家三氏の年寄の外に、年寄数名を任ず、とある。

◎名家の創成

 あたかも年寄を出す門閥家は決まっていて五氏以外からは例外的に数名出すという規定かと錯覚するが、実際には五氏以外からの年寄の方が人数が多い。だからこそ、門閥勢力は保身を図らねばならず上記のような暗黙の規定を流布しようとしたのだろう。

 宗春の下で門閥以外から年寄となっているのは、織田長恒、横井豊後、そして星野織部だ。

 信長の血をひく織田家は名家だが、尾張家臣となったのは長恒の父の代だった。新参者だが二代続けて年寄となり、新しい名家となりそうだった。

 横井家は尾張家に古くから仕えているが、豊後は傍流のまた傍流だった。父は継友の小姓から出世して加判の列となったが、年寄にはなれずに他界した。宗春は子の豊後を年寄に引き上げた。折しも織田長恒が失脚した後釜だった。宗春は名古屋に居る時に豊後を江戸に遣り、宗春が在府の折は豊後を名古屋の留守居とした。元文三年五月末の宗春押込の際に名古屋で旧制に復することを触れたのはこの豊後だ。

 さて、上記の二人は先代から藩主の下での実績があったわけだが、織部にはない。それを一代で名家にしたいと宗春は考えたのだろう。知行と役職だけでは名家とは世間が認めない。さてどうやったか?

◎館を与える

「尾藩世紀」享保十八年

山村甚兵衛邸(東大手前)を借上られ、修繕の上、星野織部をして居住せしめらる。

 同様記事は同書の元文元年にもあるが、「金府紀較抄」が次のざれ唄を享保十九年に載せているから享保十八年が正しいと考えられる。

 星のもる司馬の庵(いおり)をふりすてゝ御しろの辰巳しかも能(よき)家

 星の見えるような柴のあばら家を去って御城の東南の良い家に転居した。「星の」は勿論星野。司馬は織部の別名の一つ。「辰巳」の直後に「しか」とあって「しかぞ棲む」かと思ったら「しかも能家」ときて喜撰法師も大笑いだ。

 あばら家に住んでいたわけではなかろうが、新たに与えられたのは御城の東大手門前の門閥家の宅地だ。山村氏は木曽衆で上松の関守として幕府にも仕えており、当主は永らく名古屋に住むことはなかった。

「元文三年名古屋図」(服部聖多朗/編,1959)より

 図左上の東大手門は石垣が現存する。織部屋敷は現在の名古屋拘置所あたり。石河家の南隣で同様に広い。

 織部にはこの他にも名古屋南部や幅下、知多の古見にも屋敷地が与えられている。

◎ 大名の姫を室とする

『稿本藩士名寄』によれば織部の妻は藤堂高虎の血をひく藤堂出雲家の娘だ。宗春は、これにより姻族に名門大名を得て星野織部家の家格を上げることを企図したのだろう。逆に見れば、大名から室を迎えるに相応しい館が必要だったのだろう。

『宗国史』藤堂高武の子にその名がある。

女子 名見好。尾州星野織部室。藤堂造酒丞廣精は織部の遺腹の子

 年齢が記されていないが、男子の高豊(享保二年生)と高文(享保五年生)の間に書かれているから享保十八年当時は十代の半ばで織部とは二十ほどの年の差があっただろう。

 「遺腹の子」とは穏やかでない。しかも姓は藤堂だ。すなわち、「隠居後離縁」した時点で宿していた子なのだ。織部は四十一歳で授かった子の顔を見る前に離縁させら、長兄の次男を養子とし身を寄せたのだった。

 男子が続けて夭逝して求心力を失った宗春と子ができても離縁せねばならなかった織部との対照は何とも皮肉にみえる。

 元文四年四月十九日 星野織部致仕、隠居

 「金府紀較抄」は同年五月四日 宗勝の名古屋入りの後に藤堂家の使者を特筆している。

 「御入部に付 諸国より使者有 其内藤堂和泉守殿使者大野木満足兵衛」

 『藤堂高虎家臣辞典 増補』(佐伯 朗/編)によると大野木満足兵衛は百五十石取りの大小姓だ。出雲守でなく和泉守とあるのは、見好の兄高豊は本家を相続し津藩主和泉守と名乗っていたからだ。

 これは想像だがこの時、満足兵衛が見好を駕籠に乗せ新藩主の入部に沸く名古屋から密かに引率していったのだろう。

 見好の口惜しさは察するに余りある 。

「夢夕」に込めた想い

 ネットは横書きの世界なので、偏と旁を分けて書く文字遊びができる。例えば革化と書くと靴に見える。言己と書けば記することの意味さえ見えてくる。往時は縦書きしかなかったから、縦書きで考えてみた。

 縦書きで「夢夕」と書くとどうなるか?夕夕で多いに見えるのに気付いた。夢の旧字は「梦」だから、縦書きで林多と書けば、夢夕と読めるわけだ。そこに込められたのは、「夢多かれ」というメッセージ。この世は変えていける、という宗春の前向きな想いではなかったか。

 織部は、隠居後を決して失意の内に過ごしたわけでなかった、と思いたい。致仕後、十一年、宗春よりも先に鬼籍に入った。