名古屋が踊る(1/2)

◎名古屋が踊る

名古屋の夏の風物詩となった「どまつり」(にっぽんど真ん中祭り)は、ウェブサイトによれば高知の「よさこい」にあやかったそうである。どうやら、昔日に名古屋で開催された一大ダンスコンペティションではないらしい。

今から290年ほど前、名古屋で史上空前の大規模な盆踊りが行われた。同時代の記録である「月堂見聞集」によれば名古屋城下175カ所!日を改めたダンスコンペティションは28時間ぶっ続け……。

どまつりの歴史はまだ浅く江戸時代にルーツがあるわけではない。だが、規制から解放されて、囃子に合わせて城下の通りを踊った人々の情熱のDNAは今に続いているに違いない。

◎禁じられた踊り

阿波踊りを仕切っていた観光協会が赤字つづきで徳島市主導となり、総踊りをやる、やらないで内輪もめとなった。踊りを観光の目玉にしようという魂胆がそもそもよろしくない。「……見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃ損々」と唄っておいて大掛かりな観覧席を作って損をしてるというのは既に阿呆を通り越している。三十年以上前に阿波踊りのシーズンに行ったのだが踊る場所が無くてがっかりしたことを思い出した。

踊りのスタイルはいろいろあろう。郡上踊りには、見るだけの阿呆はいない。誰でもいつでも同じ踊りの輪に出入りできる。しかも駐車場あたりでは街はひっそりしている。城下町の角を曲がって踊り子の姿が見えると同時に囃子が聞こえるから町々に小さなスピーカーをいくつも配しているのだろう。騒音対策として関東でイヤホンで盆踊りがあるというが、それでは体に響く音がないし、その場の一体感がないだろう。郡上方式を教えてあげたい。

鳴物に合わせて身体を躍動させる踊りは理屈ではない。踊りたいから踊るのだ。踊るなと言われると益々踊りたくなる。事実、江戸時代は踊りが制限されていた。もちろん騒音は問題ではなく、治安維持、風俗紊乱を防ぐためである。

◎異相なる体(てい)を禁ズ

先代藩主の継友治政下の名古屋では、踊りに対する制限が山ほどあった。享保七年の町触(まちぶれ)から禁止の細目を逆に読み解くと当時の庶民の盆踊りに対する創意工夫の情熱が見える。

「装束を拵へ、裏又は家の内は躍り候儀、猶更まかりならず候。芸人を雇ひ物真似などいたし、三味線を入れ、床台を出し、提灯を灯し、其外異相なる体、致すまじく候。かつまた、作花・作物などを持ち候儀、または獅子の舞などいたし躍候儀、まかりならず候。申すに及ばず候えども、他町はもちろん、寺社あるいは諸士屋敷などへまかり越し躍り候儀、堅く仕るまじき事」

 衣裳を作って家の裏や内で踊ってはならない。芸人を雇って物まねなどさせ、三味線を弾かせ縁台を出し、提灯を灯し、その他、普通でない姿をするな。花や小道具などを持って、または獅子舞をして躍るのもいけない。いうまでもないが、他の町はもちろん寺や神社、武家屋敷へ踊り込むのも絶対にしてはならない。

通りを挟んで向かいも同じ町内だったから、町内表とはその表通りのこと。町内裏とは通りに囲まれた1ブロックの真ん中、閑所(会所)と呼ばれた共有スペースで今ではもっぱらタワーパーキングになっている。表でも裏でも踊ってはならぬという。踊りのパワーを怖れる理由は、最後に見える。町人が踊り集まることで高揚し、武家や寺社に祝儀を強要し受け入れられなければ騒動を起こすのではないか、との統治者の怖れがあったのである。

さて、次のお殿様ときたら、普段から鼈甲笠に緋のお召といった自ら異相なのだから、町人の期待が高まらないわけがない。

◎女と青少年を守れ

享保十六年七月八日、期待通りの触れが出た。なお、「をとり」=踊り

「男形をとりの儀、当年は装束・衣類拵え候てをとり候とも、少しも御かまへ無しの候間、勝手次第にをとらせ申すべし、との御事に候」

 男の踊りについては、今年は衣裳を作っても全く構わない。好きなように踊らせよ、との仰せである。

男らは好き勝手にやれとの触れなのだが、実はこれには前段がある。

「盆中をとりの儀、町々女・子ども十四五才より以上の者、町中ならびにその町内表にてをとり申す儀遠慮仕るべく候、若々不埒にても出来申し候へは、その身のためにも宜しからず候間、この段町々女・子どもこれある町申し渡されるべく候、家内裏にてをとらせ申すべく候、その内十四五才よりの内の女・子どもは、只今迄の通り勝手次第に候」

 私は、この件を理解するのにかなり時間を要した。まずは、文字通りを現代語にしてみる。

盆踊りについて、各町の女と子ども14、15才以上の者は、町中や自分の町の表通りで踊るのは遠慮したほうがよい。若し不埒にも出て来ると身のためにならない。これについて女・子どものいる町に伝えよ。家の裏で躍らせなさい。女・子ども14、15才未満なら今までどおり勝手次第とする。

最初の「以上」は以下の間違いではないかと最初考えたが、それでは付帯の今までどおりと付帯する必要が無くなる。そこで「今までどおり」とは何なのかを探したところ、先に引用した享保七年の町触に糸口があった。

「盆中町々にて子ども躍りの儀、常々の衣類にて、町内表に限り躍り候様、年々申し付け候通り」

 規制の厳しかった頃でも子どもによる踊りは表通りで踊って良かったというのだ。可愛らしくて心を和ませたのだろう。

というわけで、付帯部分、女・子ども14、15才未満というのは男女満13才以下の子どもは表で踊っていいよ、と解せる。当時はペドフィリアなどという観念は無かったと思われる。

一方で踊りの遠慮を勧められた者たちも当時の恋情の在り方を考慮すると見えてきた。すなわち、「女と子ども14、15才以上の者」とは若い女と元服前の青少年のことである。若い女の踊りが本人の意思に関わりなく扇情的であったであろうことは想像に難くない。加えて往時は男色を好む者たちにとって青少年の踊りも十分に扇情的だったのだろう。宗春本人がどうだったか定かではないが、衆道を禁止したわけではないことを付言しておく。生産性などと無粋なことを言うはずがない。恋愛も踊りもno reason。それは生が勢いよく燃えて輝く瞬間だ。