太宰春台コネクション

◎奇を好む儒者

 太宰春台は荻生徂徠の門下の博覧強記の儒学者である。厳しく子弟の礼を求め、大名の子弟にも同様に謹厳であった。その説くところは明快至極。「今の世では金銀を手に入れる計をなすことが急務であり、それには商人のように売買することが一番近道である。領主が金を出して国の土産や貨物を全部買い取って他国で売るのが良い」と明らかに重商主義的な経済思想へ進展=転換している。商人の真似をするな、などとは言わないのだ。

 一方、舞や笛にも秀でていた。京都で放浪中に辻氏から舞の免許状を貰っている。黒田直邦からもらった舞衣をもっていた。笙も吹くが横笛がもっとも得意で名手だった。(「太宰春台」 武部善人 吉川弘文館)

◎露見すれば間違いなく首が飛ぶ上書

 「恐れながら封亊を以って言上仕り候」という書き出しから「太宰純誠惶誠恐頓首々々死罪々々謹言」という上表の形式に基いた享保十八年の上書が今に残る。太宰春台から前年に幕府西之丸老中となった黒田直邦へ宛てたもので、将軍吉宗の失政を諫言すべし、と訴えかける。直邦が腹の据わった人格者であったから良かったものの露見すれば死罪は確実だったであろう。

 内容は極めて辛辣である。それもそのはず、この年の正月には江戸で初めての米屋の打ち壊しが起きていた。幕府の指示で大坂の米相場に介入していた高間伝兵衛宅が襲われたのだ。深刻な状況打開のため春台は真剣である。

 米相場に介入して吉宗が「人民と利を争い候ては、いつとても民に勝候ことあたはず、却って民の怨心を引起し候」、上が利を求めるから家臣も天下万民の事より私利を優先するようになる。この際、「山王、神田以下諸社の神事を先規のごとく執行せしめ、遊女丁、見世物場を故のごとく許され、都て繁雑なる政令を一切に停止せられ候はば、万民欣喜仕」

 これは、宗春の施政に倣え、と言っているようにしか思えないではないか。

◎尾張年寄との接点

 そもそも直邦は荻生徂徠門下で春台にも私淑していた。だからこのような危険な上書も受け入れた。

 宗春と徂徠学の接点については林由紀子氏の研究がある。(「徳川宗春の法律感と政策」『近世名古屋享元絵巻の世界』清文堂)氏が徂徠学との接点があったとする尾張藩士の中に鈴木明雅がいる。享保十四年従五位下朝散大夫になった時、春台から詩文を贈られるほど親しい間柄だった。

 尾張の知恵者として『趨庭雑話』は、次のようなエピソードを伝える。

 章善(宗春)公の時、覇府老衆を以て、御倹約により十年の間、木曽山借用なされたし、とありしに、人々御答にまどひぬ。鈴木明雅答へ奉られけるは、いかにも安き御事に侍れば、山は上納いたさるべけれど、川は入用の事もあるものなれば、御免下されよ、と申上げられければ、其事止みたりとぞ。

 幕府老中から「木曽の木を使わせろ」と言われたところを明雅が「良いですよ。でも木を流して運ぶ木曽川はお貸しできない」と答えた。まるで一休頓智話。これが公式に言い渡された話だとは筆者(大野)は思わない。人々が返答に窮したという部分は、話を盛ったところであろう。思うに元は幕府老中となされた茶飲み話だったと思われる。明雅が冗談話を交わせる仲の幕府老中は、前述の黒田直邦であったに違いない。

◎宗春シンパの老中

 さて、意を決した上書を受けた直邦は、吉宗に諫言したのか?残念ながら、それは記録にないが、この後、禁止だったはずの豊後節が禁制の心中物を上演できたのは直邦の意見があったのではないか、と筆者は考えている。禁制の心中物とは、名古屋発の「睦月連理の玉椿」(名古屋心中)のことである。

 幕府の豊後節取締り方針の曲折は、笠谷和比古氏の「徳川吉宗の享保改革と豊後節取締り問題をめぐる一考察」(『日本研究』 国際日本文化研究センター紀要 第三三集、二〇〇六年)に詳しい。

 「吉宗と宗春が対立した」という硬直化した視点からでは幕府方針の曲折は説明できない。幕閣の中にも宗春の目指す仁政に理解を示す者もあった。筆者は黒田直邦以外にも居たと考えている。