一枚岩ではなかった吉宗政権

◎綱吉仁政の名残り

 「宗春と吉宗が対立した」という視点に固執しているとディテールが見えてこない。そもそも和を以て貴しとなす厩戸王以来の伝統なのか独裁者というものは日本には現れなかった、と書くと批判があるかもしれないが、少なくとも宗春も吉宗も独裁者ではなかったようだ。吉宗は、現実をしっかりと見据えたバランス感覚のある将軍であり、向き不向きを見て使者を選択していたように思える。

 宗春代の尾張家(藩邸以外も含む)への使者を下の表にまとめた。

 当初は老中在任期間の長い松平乗邑が最高格の御使として訪問したが、いわゆる三ケ条の詰問の後は、松平輝貞が多く御使となった。輝貞は厳密には老中ではないが老中格で御意見番といったものだったと思われる。表中の老中を就任の古い順に書き並べる。(数字は享保17年当時の年齢)

松平乗邑 47

酒井忠音 42

松平信祝 50

松平輝貞 68 (老中格)

黒田直邦 67 (西之丸)

因みに吉宗は49歳。使番の滝川元長は71歳。

 後に幕閣に加わった者の方が年上、という不思議な逆転現象が起きている。

 滝川元長を含めて60歳以上の共通点として五代将軍綱吉に仕えていたことが挙げられる。輝貞は生類憐みの心を強く持ち続け、吉宗の方が鷹狩の獲物を与えることを控えたという。先の記事で書いたように直邦は荻生徂徠、太宰春台との交わり深い学者でもあり、領地沼田では名君の誉れ高い人物。

 三ケ条の詰問の後、使者の元長を清戸へ誘ったのは懐柔だろうか。嫡子萬五郎の節句祝いに輝貞が使者となり、その後の尾張家向きお定まりの使者となった。宗春の施政に理解を示す綱吉恩顧の者たち――筆者はここに綱吉も目指した仁政の名残りを見る。

 清戸へ誘われなかったもう一人の使者石河政朝は、尾張家老竹腰正武の実弟であり、後に町奉行となって乗邑の下で公事方御定書の編纂に携わることになる。

◎欝だった宗春

 表中、享保十七年の三ケ条の詰問後の宗春の病気について新たな知見がある。

『稿本藩士名寄』の大寄合野崎主税の項に興味深い記事がある。

享保十六年亥六月廿八日 御朦氣為御尋使被進候 上御礼使相勤候付有徳院様江御目見

 朦氣(鬱病)見舞いに使者が来て、その御礼の使いとなって吉宗に御目見えした。鬱病となったのは誰か?主語がないが「御」朦氣と敬ってあるから宗春以外には考えられない。ところが年が違う。享保十六年六月は宗春は国元に居り、そこに病気見舞いの使者が来たとは考えにくいから、後年提出した野崎家家譜の単純な年の誤記と考えられる。享保十七年、渋谷と加納が見舞いに訪れた宗春の病は鬱病であった可能性が高い。

◎吉宗が宗春に急報

 元文元(享保二十一)年三月の参府直前の駅使による尋問はかなり重要な知らせであったと思われる。なぜなら、これに呼応するように宗春は、新地を一カ所に取り纏めることを道中で令したからである。この令が三月十一日に名古屋に届いたことが「遊女濃安都」に記され、「尾藩世紀」では島田宿で発令したと特定している。さらに、参府し着邸後、吉宗との対面の前に宗春は、道中での令を改め、新地全廃の令を出した。

 つまり、道中に届いた急報は、このまま参府しては宗春にとって良くないことが起こることという忠告だったと考えられよう。令の内容から遡って想像すれば、名古屋の風俗紊乱が江戸に波及しており、厳しい沙汰を求める幕閣からの突き上げがあり、押込もやむなしとした、至急何らかの対策をせよ、という温情ある事前通告だったのではなかろうか。幕府の正史たる「徳川実紀」にとられているわけだから、幕閣の誰かが私的に伝えたものであるはずはなく、吉宗本人からの報せと考えるのが妥当だろう。宗春就任時に二人の間に伝書ホットラインがあったことは「月堂見聞記」にも記されている。

 江戸詰になっていた竹腰正武が藩主押込に対する内諾を幕閣に求めていたと考えられないか。幕閣は御三家の押込を勝手に許可はできないから当然吉宗に伺いを立てた。駅使による尋問は、その動きを知っていた吉宗が垂れた蜘蛛の糸だったと私は考えている。

 正武は参府した宗春に追い打ちをかけ、一カ所でも遊所を残すようでは手緩いと迫ったものと思われる。

 自ら許した遊所の廃止とそれに伴い職を失う新地の者らの行く末を想うと忍び難い辛さがあったろう。一方で吉宗の恩情を裏切るほど薄情な宗春でもなかった。宗春と吉宗、双方とも独裁者ではなかったのである。