星野織部と藤堂見好

◎小姓から五千石の年寄に

 星野織部といえばと徳川宗春の寵臣としてあまりに有名、と思っていたが、現時点でwikipediaのページすらない。まずは、『稿本藩士名寄』を元に経歴を記す。

星野則昔  長之助 常四郎 此面 軍之右衛門 仁左衛門 藤馬 弥右衛門 司馬 織部 夢夕

星野七右衛門三男

年寄役  高五千石

妻ハ藤堂出雲娘隠居後離縁

一 正徳元年八月廿六日 新規 御目見

一 正徳三年五月廿一日 万五郎様御小性として召出

一 享保五年十月十二日 主計頭様御徒頭 御小性兼役

一 同十年八月廿八日 御用達並役

一 同十一年三月十二日 御用達本役

一 同十三年二月廿一日 御馬廻組

一 同十六年七月十二日 奥組

一 同年九月十九日 御歩行頭

一 同十七年正月十一日 御用人 都合八百石

一 同年二月六日 御側同心頭 都合千石 同心七騎

一 同年八月廿一日 年寄役 都合弐千石 同心都合十三騎

一 同年十二月廿八日 都合四千石

一 同十八年十二月廿九日 同心都合十五騎

一 元文二年正月十五日 同心都合二十二騎

一 同年十一月十九日 都合五千石

一 同四年四月十九日 隠居

  知行五千石の内八百石を同姓弥右衛門へ相続 生年が不明だが、「尾藩世紀」によると享保二〇(1735)年十二月晦日に年男の役を勤めた、というから翌年に三十七歳となる年男と考えると元禄十二(1699)年生まれで、宗春の三歳下ということになる。

 隠居後称した「夢夕」が「夢の跡」と重なって古を懐かしむだけの余生を送ったかに思えたものだ。

◎家老、老中、年寄、執政の違い

 織部が年寄となったわけだが、要職を表す他の名称とどんな関係になるのか?

 一般的に老中と言えば幕府の要職で大名の家臣のトップが家老という認識と思われるが、尾張家に関する文書には家老、老中、年寄が要職を表す肩書としてよく登場する。同一の人物でも文書によって様々だし、史料が書かれた時代によっても違っているので一概に言えないが、筆者は下記のように使い分けている。

家老:成瀬、竹腰両家の当主に無条件に与えられる尊称。「御家老」と呼ばれる。

年寄:門閥家から選ばれる諸職の第一。だが「御年寄」とは呼ばれない。

老中:家老と年寄による評議体。個々のメンバーは「御老中」とも呼ばれる。

執政:老中の中で政務を取り仕切る執行役で、宗春の執政は成瀬大膳。他の老中は監査役。あるいは留守居として決済する。

加判の列:門閥家でないゆえ年寄の役に就任できないが最高意思決定機関のメンバーとして藩主が認めた者。継友の代の横井豊後守。幕府なら柳沢吉保か。

 名古屋市史には、成瀬、竹腰両家当主を「両家年寄」ともいう。両家年寄の下に、石河、志水、渡辺三氏の万石以上の年寄あり。家督の順を以て席を定む。両家三氏の年寄の外に、年寄数名を任ず、とある。

◎名家の創成

 あたかも年寄を出す門閥家は決まっていて五氏以外からは例外的に数名出すという規定かと錯覚するが、実際には五氏以外からの年寄の方が人数が多い。だからこそ、門閥勢力は保身を図らねばならず上記のような暗黙の規定を流布しようとしたのだろう。

 宗春の下で門閥以外から年寄となっているのは、織田長恒、横井豊後、そして星野織部だ。

 信長の血をひく織田家は名家だが、尾張家臣となったのは長恒の父の代だった。新参者だが二代続けて年寄となり、新しい名家となりそうだった。

 横井家は尾張家に古くから仕えているが、豊後は傍流のまた傍流だった。父は継友の小姓から出世して加判の列となったが、年寄にはなれずに他界した。宗春は子の豊後を年寄に引き上げた。折しも織田長恒が失脚した後釜だった。宗春は名古屋に居る時に豊後を江戸に遣り、宗春が在府の折は豊後を名古屋の留守居とした。元文三年五月末の宗春押込の際に名古屋で旧制に復することを触れたのはこの豊後だ。

 さて、上記の二人は先代から藩主の下での実績があったわけだが、織部にはない。それを一代で名家にしたいと宗春は考えたのだろう。知行と役職だけでは名家とは世間が認めない。さてどうやったか?

◎館を与える

「尾藩世紀」享保十八年

山村甚兵衛邸(東大手前)を借上られ、修繕の上、星野織部をして居住せしめらる。

 同様記事は同書の元文元年にもあるが、「金府紀較抄」が次のざれ唄を享保十九年に載せているから享保十八年が正しいと考えられる。

 星のもる司馬の庵(いおり)をふりすてゝ御しろの辰巳しかも能(よき)家

 星の見えるような柴のあばら家を去って御城の東南の良い家に転居した。「星の」は勿論星野。司馬は織部の別名の一つ。「辰巳」の直後に「しか」とあって「しかぞ棲む」かと思ったら「しかも能家」ときて喜撰法師も大笑いだ。

 あばら家に住んでいたわけではなかろうが、新たに与えられたのは御城の東大手門前の門閥家の宅地だ。山村氏は木曽衆で上松の関守として幕府にも仕えており、当主は永らく名古屋に住むことはなかった。

「元文三年名古屋図」(服部聖多朗/編,1959)より

 図左上の東大手門は石垣が現存する。織部屋敷は現在の名古屋拘置所あたり。石河家の南隣で同様に広い。

 織部にはこの他にも名古屋南部や幅下、知多の古見にも屋敷地が与えられている。

◎ 大名の姫を室とする

『稿本藩士名寄』によれば織部の妻は藤堂高虎の血をひく藤堂出雲家の娘だ。宗春は、これにより姻族に名門大名を得て星野織部家の家格を上げることを企図したのだろう。逆に見れば、大名から室を迎えるに相応しい館が必要だったのだろう。

『宗国史』藤堂高武の子にその名がある。

女子 名見好。尾州星野織部室。藤堂造酒丞廣精は織部の遺腹の子

 年齢が記されていないが、男子の高豊(享保二年生)と高文(享保五年生)の間に書かれているから享保十八年当時は十代の半ばで織部とは二十ほどの年の差があっただろう。

 「遺腹の子」とは穏やかでない。しかも姓は藤堂だ。すなわち、「隠居後離縁」した時点で宿していた子なのだ。織部は四十一歳で授かった子の顔を見る前に離縁させら、長兄の次男を養子とし身を寄せたのだった。

 男子が続けて夭逝して求心力を失った宗春と子ができても離縁せねばならなかった織部との対照は何とも皮肉にみえる。

 元文四年四月十九日 星野織部致仕、隠居

 「金府紀較抄」は同年五月四日 宗勝の名古屋入りの後に藤堂家の使者を特筆している。

 「御入部に付 諸国より使者有 其内藤堂和泉守殿使者大野木満足兵衛」

 『藤堂高虎家臣辞典 増補』(佐伯 朗/編)によると大野木満足兵衛は百五十石取りの大小姓だ。出雲守でなく和泉守とあるのは、見好の兄高豊は本家を相続し津藩主和泉守と名乗っていたからだ。

 これは想像だがこの時、満足兵衛が見好を駕籠に乗せ新藩主の入部に沸く名古屋から密かに引率していったのだろう。

 見好の口惜しさは察するに余りある 。

「夢夕」に込めた想い

 ネットは横書きの世界なので、偏と旁を分けて書く文字遊びができる。例えば革化と書くと靴に見える。言己と書けば記することの意味さえ見えてくる。往時は縦書きしかなかったから、縦書きで考えてみた。

 縦書きで「夢夕」と書くとどうなるか?夕夕で多いに見えるのに気付いた。夢の旧字は「梦」だから、縦書きで林多と書けば、夢夕と読めるわけだ。そこに込められたのは、「夢多かれ」というメッセージ。この世は変えていける、という宗春の前向きな想いではなかったか。

 織部は、隠居後を決して失意の内に過ごしたわけでなかった、と思いたい。致仕後、十一年、宗春よりも先に鬼籍に入った。

宗春を追い落とした家臣たち

柳営日次記

◎不都合な真実は幕府の日記にあった

 PKO活動で当該エリアでの戦闘の有無が国会で議論された際、自衛隊の日記を破棄したという耳を疑う言葉があった。結局はデータとして残っていたわけだが、国が行っている活動の記録がPKOやりました、だけで済むわけはない。現場の記録を軽視している。事件は現場で起こっているのだ。

 後に残って都合の悪いものを破棄するのは、犯罪者のみならず、時々の権力者の常だ。だから後の世に意図的に残された史料には疑いの目を向けること(史料批判)は研究者の常道だ。歴史捜査というテレビ番組があるが、証拠の確度を見極めつつ推理する過程を鑑みれば、なるほど歴史研究は犯罪捜査に似ている。

 徳川幕府の正史である「徳川実紀」になく、尾張の正史にも残っていないが、徳川実紀が参考にしたとされる幕府の日記「柳営日次記」に興味深い記事があった。宗春が蟄居となった元文四年正月、尾張家を相続した徳川但馬守(宗勝)が家臣を引き連れて二十八日に御礼の登城をした記録だ。

 (国会図書館デジタルコレクションより)

 前主君が謹慎となって十五日後に新しい主君と共に御礼に登城した家老竹腰志摩守以下十一名の尾張家臣が記されている。

 家中の首謀者が家老の竹腰正武であったことは、正武の事績を称揚する「尾張大夫義忠府君行状」に記され、ここでも成瀬隼人正を押さえて筆頭となっていることからもほぼ間違いのないことだろう。その首謀者に引き連れられて時期将軍に御目見えしたのだから宗春を追い落とした者たちと言えよう。ここには年寄だった星野織部や成瀬大膳の名はない。

 この中で筆者が小説「宗春躍如」で取り上げたのは用人(柳営日次記では供番頭)の横井孫右衛門、星野八左衛門、遠山大膳の三名だ。以下に遡及的に関係性を洗い出してみる。

◎明暗を分けた小姓トリオ

 享保十七年二月十三日、同時に小姓として召出された遠山百太郎(大膳)、千賀茂兵衛、小笠原斎宮の三名。歳の近かったであろう彼らのその後は三者三様だった。

 斎宮は、先のブログで書いた小山主膳事件に連座して享保二十年に致仕。

 宗春隠居時も小姓のままだった茂兵衛は宗春に付き添い、その十四年後の宝暦三年に小納戸として再度召し抱えられた。

 元文二年に小姓から用人に転じた遠山大膳は、宗春蟄居後も昇進を続け、宝暦十一年、年寄、その後従五位下伊豆守の士大夫にまで昇り詰めた。結果としてただ一人、上手く主君を乗り換えたわけだ。

◎孫右衛門は俳人横井也有(やゆう)

(栗原信充/画、国会図書館デジタルコレクションより)

 日付は横井孫右衛門也有の没した日だ。「ひるがほやとちらの露もまにあわす」すなわち、昼顔は朝露も夜露も受けることができず間の悪いものだ、と間の悪さを茶化している。実は露に濡れて品を作る朝顔や夕顔でなく、真っ当にお天道様の下に咲く昼顔に共感を持っているのではなかろうか。

 のちの時代に描かれたこの肖像画や「鶉衣」などの軽妙洒脱な俳文からは、滑稽な好々爺の雰囲気が漂うが、後に大番頭、寺社奉行まで勤めた有能な藩士名門横井藤瀬家の惣領だ。

 「稿本藩士名寄」の同年の記事は

元文四年未四月十一日 御帰国ニ付御供ニ而登城於御黒書院公方様大納言様江御目見巻物二拝領

これ以前の正月二十八日の御目見えを隠蔽している。宗春蟄居と同月に江戸城に登城し大納言家重に御目見えしたことを記録に残すのは憚られたわけだ。やはり、宗春追い落としの功労者と見られたくなかったからだろう。

◎星野八左衛門は織部の実兄

 この御目見えの事実を包み隠さず堂々と自らの経歴として藩に提出した者が一人だけいた。星野八左衛門――宗春の寵臣織部の実兄だ。八左衛門は逆に宗春追い落としの功労者と見られたかったのだろう。

元文四年未正月廿八日 御相續御礼御登城之節 御供ニテ御城江罷出太刀銀馬代紗綾弐巻献上奉拝 将軍吉宗公 亜相家重公

 吉宗も居たとする部分以外は紗綾の巻数まで一致する。

 八左衛門はこれ以前に、ある使命を与えられた。上記と同じく「稿本藩士名寄」から引用する。

元文二巳九月十五日 此度民部様御産之為御用事江戸表江被差遣候間 御附人をも兼勤候様ニ可相心得旨於御前御直被仰付

 出産が近づいた宗春の側室の民部の付け人となれ、と直接宗春から命じられた。

 嫡子を亡くした宗春は、跡継ぎの無事の誕生を願って織部の兄という血縁を信頼したのだろう。ただし、諸大名からの嘉儀の使者を取り仕切る実務となると八左衛門では頼りないと宗春は考えたようで、すぐさま別の用人を添えたことが次の史料に見える。

 以下は、「稿本藩士名寄」の横井孫右衛門の項。

元文二巳十月三日 此度御出産之節 蟇目矢取之役相勤候様ニと被仰付

 同日 今度民部様御出産之節当御代初而之御儀 其上殿様御留守方之儀にも候 先達而星野八左衛門儀 右御用并御附人相兼相勤候様にと被仰付被遣事候間 何も一統ニ申合諸事御大切ニ御模通宜相勤候様被仰出

 蟇目矢取とは出産の際に魔除けに放たれる鏑矢を取る役目だ。それだけでなく八左衛門に協力するよう命じている。

 さらに、年寄に引き上げた横井豊後をも江戸へ向かわせた。彼らは全て宗春が信頼した者たちだと考えられる。

 ここまで念を入れるということは、逆から見れば江戸詰の家老竹腰正武を疑っていたことをうかがわせる。奇異な振舞いで幕府と対立する宗春の隠居を望む声が宗春にも聞こえてきたのだろう。家臣の間での対立が深まっていたようだ。

◎加藤清四郎へのお咎め

 八左衛門に命が下ったよりさらに九日前、加藤清四郎、喜四郎兄弟が蟄居となった。今まで誰も指摘していないがこのお咎めには継嗣をめぐる藩内の軋轢を静める意味があったと推測する。

 「士林泝洄」から蟄居前後の記事と共に引用する。

加藤清四郎

享保十六年亥五月廿二日 附属于國丸主為御書院番頭

元文二年巳九月六日 有故公収食邑賜俸七十六石蟄居

 四年未九月廿一日 返賜食邑八百石為寄合

加藤喜四郎

享保五年子八月廿五日 被召出新御番賜俸

元文二年巳九月六日 有故公収俸蟄居

四未九月廿一日 為御馬廻賜俸

 蟄居は「故あって」と理由は明示していない。当時の状況から考えてみる。

 清四郎は宗春の嫡男国丸の書院番頭だったが国丸は夭逝してしまった。その傅役として責任をとらず、知行の返上を申しでることもなく今日までのうのうと禄を食んでいる。来る九月九日は国丸の三回忌だ。そして民部の出産が近い。罰を与えて生まれる子の傅役の戒めとしなければならない、と宗春の寛容な施政方針への批判の高まりが宗春側近からもあったのだろう。宗春は側近の意見を無視もできず遅ればせながら加藤兄弟を咎めたのだろう。食い扶持の七十六石を与えたのは宗春からの慰謝料だと推測できよう。兄弟とも宗春が蟄居となった元文四年に揃って許されていることからも宗春側近が望んだ処罰だったのだろう。

 この御咎めの後の出産立合いの命である。跡継ぎの無事な出生と扶育がなされなければ禄を減らされることが示され、江戸へ派遣された者たちの重圧は高まったことだろう。

 側近たちの期待の中、十一月、男児が無事誕生し龍治代と名付けられた。待望の宗春の世継ぎだったがその年のうちに夭逝してしまった。

 派遣された者たちは御三家の嫡男誕生を祝う使者に溢れる市ケ谷邸で昂揚感を味わい、翌月に数多の弔問の使者に応対して多忙な年の瀬となったことだろう。

◎使者の結束

 彼らは国元には帰らなかった。命には側室民部の付け人として御用を勤めよとあるから三月の宗春の参府までは留まらなくてはならない。苦難に直面し使者の結束が高まった。若き年寄の横井豊後と同門の孫右衛門、孫右衛門と星野八左衛門、さらに彼らを束ねたのは家老竹腰正武だったと筆者は推測する。正武は江戸詰となって丸二年経ち、将軍や幕閣との繋がりに自信を深めていたことだろう。「主君に失政あれば押込もやむなし」との言質を取っていたものと思われる。押込とは主君を幽閉して政治権力を剥奪するクーデターのことだ。

 それは、早くも五月末日に実行された。「主君『押込』の構造」で笠谷和比古氏が指摘するように「徳川実紀」での宗春の記載は五月二十六日が最後で九月十日まで見られない。江戸藩邸で宗春が幽閉されたのだ。実力行使の際、寵臣織部を抑えたのは兄八左衛門であっただろうか。名古屋では六月九日、宗春の参府と入れ替わりで帰国していた横井豊後から旧制に復するよう触れが回ったことは「遊女濃安都」はじめ多くの史料に見える。

 信頼して役を与えて派遣した者たちが皮肉にもクーデターで重要な役回りをすることになってしまった。

◎「鶉衣」を史料として読む

 横井孫右衛門こと也有が著した「鶉衣」の元文三年に書かれた二句を挙げる。

 俳文は風流を専らとするから生々しい政争がそのまま書かれるわけではないことを予めことわっておきたい。比喩をどう解釈するのかが肝要だと筆者は考えている。

名徳利説(とくりになづくるのせつ)

題の下に「応星野氏需(ほしのしのもとめにおうじて)」「元文三年冬」とある。押込が解けて宗春が再出勤し数ヶ月後の作となる。

 俳文の内容は、徳利を持参した星野氏に也有が銘を求められ、その名を「此童」とした意味を語る。

 内容に入る前に筆者の見立てを記しておきたい。星野氏は八左衛門。徳利は織部を表しているのだ。

 まず、備前焼の六升徳利は銚子と違って注ぎ口がどちらへも向かず空に向かっており「いづれに向ふともなく、たれにそむくともなき姿をもそなふなるべし」と不偏であることを褒めている。

 次に、竹を愛した王子猷(おうしゆう)の故事をひいて星野氏の膝下にまつわっていた徳利を「かの此君の名の古きを尋ねて『此童』とよばん」と命名する。

 此君は一般には竹のことだ。酒徳利が身近にあることを「膝下にまつわる」とするのは無理のある表現で後の「童」と考え併せると也有は徳利に人を見ている。織部の古き名は「此面」という。

 句に至る最後の部分はそのまま引用する。 

 世の近侍の童は、立居に尻のかろきをほむれども、此童の奉公振は、ただいつまでも、いつまで草の根づよく、尻の重からむこそ、主人の心には叶ふなるべけれ。

  近頃の小姓は動きの良い者が褒められるが、本来はこの者のいつまでも根強く、尻の重い奉公こそが主人の意に叶うものなのだ。

 遠山大膳が小姓から転出し、押込以降多くの側近が離れていくが、織部はいつまでも頑なに宗春に従ったことを也有は褒めていると取れる。

月に雪に花に徳利の四方面

 一般には、何にでも合う四面徳利であるよ、と解釈されている。史料として見る筆者の解釈は大いに異なる。「月に雪に花に」は白居易の「雪月花の時、最も君を憶う」を意識して「忠君」を表す。四方面は四面楚歌を意味しているのだ。備前の六升も入る大徳利に四面のものなどあるはすがない。也有は家中で四面楚歌でも不偏に主君に仕える織部をそのままにしておけと八左衛門に言ったのだ。

 次にこれに先立つ「元文戊午(三年)之秋」と付され「手水鉢銘」と題された部分。おそらく宗春が押込に遭っている最中と思われる。

 これも手水鉢の銘を友人の堀田六林から求められた際に「時々新」と名付けたことについてかかれている。これも最後の部分を引用する。

世はよし五月雨のはれみくもりみ、蹌踉(そうろう)の水は濁るとも、ひとり此水の底清からましかば、纓(えい)を洗ひ耳をすゝぎて、長く閑居の契をもむすべとぞ。

汲みかへてもとの月あり手水鉢

 たとえ世の中が、梅雨時のように晴れたり曇ったりして、蹌踉の水のように濁ったとしても、この手水鉢の底だけは清いから冠の紐を洗い、汚れたことを聞いた耳を濯いで隠居暮らしの縁とするがよい。

 この俳文には中国の二つの古典からの引用がある。

 ひとつは、漁父の辞。潔癖な屈原に漁師は蹌踉川の水が清ければ冠の紐を洗えばよいし、濁っていれば足を洗えばいいじゃないか、と時流に合わせ妥協することをといたもの。

 もうひとつは、「史記正義」等にある故事から、帝位を譲ると聞いて「汚らわしいことを聞いた」と川で耳を濯いで隠遁した許由の話。

 俳諧の心得である不易流行を水の在り方で表現し、水に関わる故事を交えて六林の清しい閑居を羨んでいるようだ。時の尾張藩政は目まぐるしく事態が転変し、用人を勤めていると汚らわしいことも多く聞いたことだろう。一方、句には藩主が変わったとしても、いや藩主を変えても代々の奉公は変わらないという自信がみなぎっているように見える。

 因みに「柳営日次記」に見えるもう一人の用人富永定右衛門は六林の実兄である。

入墨か、半剃りか

◎入墨は極道。タトゥーはおしゃれ。

 オリンピックを機に銭湯の「入墨者お断り」を見直そうという。筆者が銭湯を利用していた京都では倶利迦羅紋紋のおじさんを時々見たものだが、恐怖を感じることはなかった。それが集団になると威圧感も出てくるだろうが、入墨者はマイナリティだった。谷崎潤一郎の書いた張りのある女の白い肌の刺青は想像の中で美しいが、実際に男風呂で見たものの多くは輪郭がぼけて猫か虎かわからなくなって垂れた肉の上にへばり付いて萎びていた。

 タトゥーはおしゃれだという。だが、そこにはもう意を決して墨を入れるという意気地は感じられない。禁煙パッチのように肌からも人は体内に物質を取り込むから入墨は確実に肝機能に影響を及ぼす、と薬剤師から聞いたことがある。それを覚悟でおしゃれする、というのならそれはそれなりに意地ともなろう。

◎罪人の印に

 デザインが単調で二の腕や額に彫られれば罪人の印となる。「享保度法律類寄」(『徳川禁令考別巻』)によると死刑の次の罰となっている。

「巧にては無之、手元に有之分の品、金十両以下の物を盗取、又は軽き品盗出候を被見咎、或は忍入、土蔵なとの戸を明け、又は壁を破り候を被見付、不遂本意候共、都て此類入墨」

 十両以下の物を盗んだか、犯行を見つけられた、あるいは忍び込んで土蔵に入ろうとしたのを見つけられれば未遂であってもすべて入墨、としている。

 消えない、という特徴から享保五年より幕府の刑罰となった。都市では人の流動性が高まり、血縁地縁が崩れ前科を調べる手立てがなかったことで、「人に記す」方法を採用したのだろう。

◎半剃りの刑

 元文二年、七月から十月頃(「金府紀較抄」は七月と十月、「尾藩世紀」は九月)に名古屋で半剃りの刑が始まった。「金府紀較抄」七月二十二日の記事を引用する。

「囚人男五人 女弐人 広小路牢之前に而 男は左 女は右之方 天窓眉共半分剃落し 御追放になる」

 罪人の髪と眉を剃り落として尾張領外に追放する刑罰だ。男は左側だけ、女は右側だけ。丸坊主ならまだしも半分残すのが異様だ。重罪の者はそのまま晒されたと尾藩世紀は伝える。受刑者にはかなりなハラスメントとなったことだろう。その無様さは見た者に強烈なインパクトを与えたと思われる。心中未遂の二人を赦した宗春は残忍な君主に転向してしまったのか?

◎牢に入った小者を側近の物頭に

 宗春の側近の中に前科のある者がいた。浅田市右衛門である。「稿本藩士名寄」(「尾張藩 藩士大全(CD版)」)から引用。

●112-112 浅田市右衛門

▽ 享保三年戌五月廿五日 主計頭様御臺所人被召抱

  金五両御扶持方二人分被下置

▽ 同年閏十月 御切米六石弐人分被成下

▽ 同五年子十月 御臺所人小頭被仰付

  御加増壱石被下置都合七石弐人分被成下

▽ 同六年丑十二御同人様御納戸役所新蔵得分被仰付

  御加増被下御切米拾三石御扶持方三人分被下置

 主計頭は宗春が通春だった頃の官途。子飼いの御台所方として金五両から十三石三人扶持まで順調に昇進してきたのだが、通春が梁川に領地をもらった後に何かをやらかしてしまったようだ。

▽ 同十五年戌五月 尾州江御指登り

  永ク揚屋江入置候様町奉行江申渡

 梁川藩主となったものの牢獄や侍の入る揚屋は持ち合わせなかったのだろう。市右衛門は尾張の牢へ入れられた。その後、尾張を相続した宗春のお国入りの後……

▽ 同十六年四月 出牢被仰付

  千賀与五兵衛知行所江御指遣シ

 市右衛門は牢から出され千賀氏に預けられた。千賀氏の知行所は知多半島の先端の師崎だ。

 そして一年後、めでたく以前と同じ十三石三人扶持で再度召出される。

▽ 同十七年子四月廿一日 御勝手番ニ被召出

  御切米拾三石御扶持方三人分被下置

▽ 同年十二月廿八日 奧御番被仰付

  御切米廿七石二人扶持被下置

▽ 同二拾年卯二月十五日 御小納戸被仰付

  御加増四拾石都合八拾石五人分被成下

▽ 元文弐年巳十二月十九日 御庭御足軽頭

  御小納戸兼役被仰付

  新知百五拾石御足高百五十石都合三百石被成下

 昇進を続け、小納戸兼御庭足軽頭となり三百石の士分となった。

◎時が経てば消える罰

 宗春の下では、罪を犯した小者さえ、悔い改めれば昇進できたのだ。

 「温知政要」の第十六の条。どんな善人も血気盛んな頃には一度や二度の過ちがあるものだ。様々な物事に興味を持つことや好色であるのは古今東西同じである。改めさえすれば過ちはすべて学問となる。

 これは、罪人の再起をも含めたものだったのだろう。

 半剃りになったところで数年の間頭巾の世話になればまた元通りとなる。ちょうどよい反省の期間だ。宗春は幕府が始めた入墨による罪人へのレッテル貼りを避け、時がたてばまたやり直せるように半剃りを行ったのだ。