◎入墨は極道。タトゥーはおしゃれ。
オリンピックを機に銭湯の「入墨者お断り」を見直そうという。筆者が銭湯を利用していた京都では倶利迦羅紋紋のおじさんを時々見たものだが、恐怖を感じることはなかった。それが集団になると威圧感も出てくるだろうが、入墨者はマイナリティだった。谷崎潤一郎の書いた張りのある女の白い肌の刺青は想像の中で美しいが、実際に男風呂で見たものの多くは輪郭がぼけて猫か虎かわからなくなって垂れた肉の上にへばり付いて萎びていた。
タトゥーはおしゃれだという。だが、そこにはもう意を決して墨を入れるという意気地は感じられない。禁煙パッチのように肌からも人は体内に物質を取り込むから入墨は確実に肝機能に影響を及ぼす、と薬剤師から聞いたことがある。それを覚悟でおしゃれする、というのならそれはそれなりに意地ともなろう。
◎罪人の印に
デザインが単調で二の腕や額に彫られれば罪人の印となる。「享保度法律類寄」(『徳川禁令考別巻』)によると死刑の次の罰となっている。
「巧にては無之、手元に有之分の品、金十両以下の物を盗取、又は軽き品盗出候を被見咎、或は忍入、土蔵なとの戸を明け、又は壁を破り候を被見付、不遂本意候共、都て此類入墨」
十両以下の物を盗んだか、犯行を見つけられた、あるいは忍び込んで土蔵に入ろうとしたのを見つけられれば未遂であってもすべて入墨、としている。
消えない、という特徴から享保五年より幕府の刑罰となった。都市では人の流動性が高まり、血縁地縁が崩れ前科を調べる手立てがなかったことで、「人に記す」方法を採用したのだろう。
◎半剃りの刑
元文二年、七月から十月頃(「金府紀較抄」は七月と十月、「尾藩世紀」は九月)に名古屋で半剃りの刑が始まった。「金府紀較抄」七月二十二日の記事を引用する。
「囚人男五人 女弐人 広小路牢之前に而 男は左 女は右之方 天窓眉共半分剃落し 御追放になる」
罪人の髪と眉を剃り落として尾張領外に追放する刑罰だ。男は左側だけ、女は右側だけ。丸坊主ならまだしも半分残すのが異様だ。重罪の者はそのまま晒されたと尾藩世紀は伝える。受刑者にはかなりなハラスメントとなったことだろう。その無様さは見た者に強烈なインパクトを与えたと思われる。心中未遂の二人を赦した宗春は残忍な君主に転向してしまったのか?
◎牢に入った小者を側近の物頭に
宗春の側近の中に前科のある者がいた。浅田市右衛門である。「稿本藩士名寄」(「尾張藩 藩士大全(CD版)」)から引用。
●112-112 浅田市右衛門
▽ 享保三年戌五月廿五日 主計頭様御臺所人被召抱
金五両御扶持方二人分被下置
▽ 同年閏十月 御切米六石弐人分被成下
▽ 同五年子十月 御臺所人小頭被仰付
御加増壱石被下置都合七石弐人分被成下
▽ 同六年丑十二御同人様御納戸役所新蔵得分被仰付
御加増被下御切米拾三石御扶持方三人分被下置
主計頭は宗春が通春だった頃の官途。子飼いの御台所方として金五両から十三石三人扶持まで順調に昇進してきたのだが、通春が梁川に領地をもらった後に何かをやらかしてしまったようだ。
▽ 同十五年戌五月 尾州江御指登り
永ク揚屋江入置候様町奉行江申渡
梁川藩主となったものの牢獄や侍の入る揚屋は持ち合わせなかったのだろう。市右衛門は尾張の牢へ入れられた。その後、尾張を相続した宗春のお国入りの後……
▽ 同十六年四月 出牢被仰付
千賀与五兵衛知行所江御指遣シ
市右衛門は牢から出され千賀氏に預けられた。千賀氏の知行所は知多半島の先端の師崎だ。
そして一年後、めでたく以前と同じ十三石三人扶持で再度召出される。
▽ 同十七年子四月廿一日 御勝手番ニ被召出
御切米拾三石御扶持方三人分被下置
▽ 同年十二月廿八日 奧御番被仰付
御切米廿七石二人扶持被下置
▽ 同二拾年卯二月十五日 御小納戸被仰付
御加増四拾石都合八拾石五人分被成下
▽ 元文弐年巳十二月十九日 御庭御足軽頭
御小納戸兼役被仰付
新知百五拾石御足高百五十石都合三百石被成下
昇進を続け、小納戸兼御庭足軽頭となり三百石の士分となった。
◎時が経てば消える罰
宗春の下では、罪を犯した小者さえ、悔い改めれば昇進できたのだ。
「温知政要」の第十六の条。どんな善人も血気盛んな頃には一度や二度の過ちがあるものだ。様々な物事に興味を持つことや好色であるのは古今東西同じである。改めさえすれば過ちはすべて学問となる。
これは、罪人の再起をも含めたものだったのだろう。
半剃りになったところで数年の間頭巾の世話になればまた元通りとなる。ちょうどよい反省の期間だ。宗春は幕府が始めた入墨による罪人へのレッテル貼りを避け、時がたてばまたやり直せるように半剃りを行ったのだ。