◎石碑に込めた想い
昨年二月に小刀屋藤左衛門こと木全湛水の終焉の地である篠島を訪れた際、島の人に訊いても、島内に在ると聞いていた湛水の歌碑はとうとう見つからなかった。きっとどこかの木の下に人目を避けてひっそりとあるのだろう。その帰り、師崎の岬の先端でSKE48の「羽豆岬」の碑を見た。探していたわけではない目に飛び込んできたのだ。豆の形(ハート型?)で開けた岬の先端に建立されていた。地域密着・地域貢献がSKEの活動のテーマだという。喧伝される噂より、一人一人、リアリティが大切という姿勢は、蓋し人気者づくりの原点だろう。ならば地域おこしに使おうという地元の商工会の思いも解らないではない。アイドルと石碑というミスマッチを狙ったのだろうか。
不勉強で「羽豆岬」という楽曲を知らなかったが、ここで紹介する伊勢音頭は、二百年以上人口に膾炙している。それなのに発祥の地には未だ石碑がないどころか知られてもいない。
◎伊勢音頭は川崎音頭
伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は城でもつ
これが伊勢音頭だ、と一般には思われているが、この歌ができた当初は、川崎音頭と呼ばれていた。
慶応二(1866)年に出版された「神境秘事談」によれば、伊勢河崎音頭は享保の頃、吹上町奥山桃雲が河崎町伊藤又市梅路に作詞させ、同町の鍛冶屋長右衛門と草司に作曲させたという。だが、その歌詞についてはふれられていない。これにより河崎町で作られたから川崎音頭と呼ばれたと推測できる。
では、いつから川崎音頭が伊勢音頭と呼ばれるようになったのか?
寛政九(1797)年に出版された「伊勢参宮名所図会」古市の図。三味線二挺に合わせて踊り子が輪になって踊る様子だ。客の男は点在していて実に自由だ。鯛の尾頭付きで酒を注されて上機嫌な者、浮かれて一緒に踊る者、踊りは見ず「こういう雰囲気が好きなんだ」と縁側で寝そべっている者もある。苔むした手水の下は万年青だろうか。料理と酒は座敷のどこでも運ばれる。テーブルとイスのない宴には開放感がある。閑話休題。見るべきは上部の説明書き……
古市も間の山(あいのやま)地域なので間の山節を唄っていたのだが、移り変わりでいつの頃からか川崎音頭が流行してこれを伊勢音頭と呼んで町中も田舎も廓の唄と同じになってしまった、という内容。
江戸後期に書かれた「守貞謾稿」は、楼ごとに歌詞や唄の長さに違いがあってすべてを同じ音頭というべきかどうか、と疑義を呈している。守貞は伊勢音頭の歌詞として三つを挙げている。順に……
「大坂はなれてはや玉造り、笠をかうなら深江が名所、ヤアトコセー、ヨイヤナ、アリヤリヤ、コリヤリヤ、ソリヤナンデモセー。」
これはできの悪いコマーシャルソングではないか!これを伊勢で唄ったところで客は腑に落ちないだろう。カタカナの囃子言葉は、あれもこれも何でもせよ、と勧めているようだ。Do what you like!
「伊勢へ七たび熊野へ三度、愛宕さまへは月まゐり、ヤアトコセー、云々」
全国に点在する身近な愛宕神社へ参詣を欠かさない信心深い者の足を伊勢に向ける擦り込みか……?
「いせは津でもつ、津はいせでもつ、尾張名古やは城でもつ、云々」
なぜ、唐突に尾張なのだろう。思うに深江同様に尾張で唄われた国誉めのバージョンなのだろう。
◎謎かけの芸風
ねずっちさんの古典的謎掛け、堺すすむさんの「な~んでか」、テツ&トモさんの「なんでだろう」と脳みそをくすぐる芸風は今も根強い。実は伊勢音頭もちょっとした謎掛けなのだ。
冒頭の伊勢音頭を見てみると、前段として「伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ」と続きで唄い、やや間があって「尾張名古屋は」ときて、その次に「やんれ」と合の手が入り「城で~」と続く。
これはつまり、伊勢と津は持ちつ持たれつだよね。さて、そこで問題!尾張名古屋は(どこと持ちつ持たれつでしょう)?と問いかける。考えさせておいて答えを言うという堺すすむ流の演芸スタイルなのだろう。答えを言わないテツトモさんではない。堺さんのように始終ネタを変えるならよいが、答えが知れ渡れば当然飽きられる。
◎尾張名古屋は何でもつ
筆者は「城」は、当初、正答ではなかった、と考える。前段を考えると、伊勢と津が持ちつ持たれつ、と読める。さて、尾張は?とだけ訊かれると、どこかな?と脳は地名を考えはじめる。美濃かな、それとも木曽かなと……。ところが作詞者の意図は伊勢と津の縁語にある。「伊勢=大社」「津=港」だ。つまり、尾張の神宮と港はどこ?と訊いているのだ。
尾張の大神宮は言わずと知れた熱田神宮。尾張の港といえば東海道七里の渡しのある宮宿。熱田神宮も宮にあるから、尾張は大社と港の両方を宮宿が一つで兼ね備えている。
伊勢は津でもつ 津は伊勢でもつ 尾張名古屋は 宮でもつ
と褒めているのではないか。
ついでに「守貞謾稿」の他の唄も名古屋バージョンにすると――
「愛宕さま」は「熱田さん」ではなかったか?
伊勢へ七度、熊野へ三度、熱田さんへは 月参り
地元密着だ。さらに、当時は木曽の蘭(あららぎ)の桧の笠が大流行したから……
名古屋離れて はや中津川 木曽は蘭 桧笠
これなら語調も合うし、押し付けがましくなく品がいい。
最初に聴いた者は「なるほどね」と腑に落ちただろう。だが腑に落ちただけだ。誰もが納得できる歌詞が大ヒットするとは限らない。というより常識すぎるとすぐに飽きる。大衆は意外性を求めるものだ。
◎西小路遊廓のオリジナルアトラクション 富士見原の花火への対抗策
ここで、前回の地図に戻りたい。
西小路芝居の枠外。
「芝居の中にて子ノ年の盆西小路女郎川崎をんどにて踊ル不当り一夜踊後止申候寅ノ年此芝居にて舞台かけ大躍り御座候」
西小路芝居で享保十七(1732)年の盆に西小路の女郎が川崎音頭を踊ったが不評で一夜で中止になった。享保十九(1734)年で(再度)舞台にかけて大踊りとなった。
西小路の遊郭は伊勢古市から来た経営者や遊女が主体だったから、伊勢色をPRしつつ地域密着・地域貢献を、とご当地名古屋のお国褒めを意図したが、当初は大コケだったわけだ。ところが二年後にリベンジが大成功した。結局、先に挙げたようにここでの川崎音頭の大ヒットは伊勢古市にまで届き「伊勢は~」で始まる音頭が伊勢音頭の名で呼ばれたわけだ。
筆者はこの二年の間に西小路のどこかの座敷で「宮」を「城」に替えた者がいたと考えている。これでは結局、成立場所が特定できず、碑の建立もできそうにない。
◎「城」は物ではない
さて、次なる問題は、宮という正答を城にしてなぜ大当りとなったか。味わい深い面白みが城にはあるのか?城が立派でかっこいい、城こそ名古屋が誇れるものだから、だから、木造で再建する価値がある、というのは物質主義で浅はかな回答というしかない。「ぼーっと生きてんじゃねーよ!」とチコちゃんに叱られる。
伊勢>>大社という連想と同じく城の意味するところ考えてみればすぐわかる。「城」は「殿様」すなわち宗春を指したのだと筆者は考える。正答をずらして「いやちがう名古屋がもっているのはお殿様のお蔭だ」と唄うことで排他意識(=俺たちだけが知っているという内輪ウケ)が生まれたのだろう。さらに、それに続く「あれもこれも何でもやってみよ」という囃子言葉は宗春治政下の自由な気風を如実に表しているのではないか。時を経て城が比喩しているところは忘れられたが、城でもつという不思議な歌詞の面白みが陳腐化を避け、延々と今日まで歌い継がれているのではないだろうか。
現今の施政者は名古屋を活気づけた、という経済的観点でのみ宗春を真似ている。結果として町が活気づいたのであり、目指したのは人の知りたいという心を満たしていく温知であり、仁政なのだ。
◎宗春の建てる城
城の再建――宗春ならどうしたか、施政者は胸に手を当てて考えて欲しい。古い図面通りの再現に拘るあまり、切り捨ててしまうようなことはしないだろう。昔の物と同じでなければ認定しないというのなら、国宝にも世界遺産にも登録されなくても良いではないか。外の評価基準に右顧左眄する必要はないのだ。人に寄り添う仁こそ宝ではないか。
そもそも、古いものに拘らない宗春なら新技術で余所にない新しい城を作るだろう。そんなオリジナリティがのちのち町の誇りとなるのだ。エッフェル塔、ポンピドーセンター……およそ当時の街並には不似合いな建物を許してきたパリの度量の広さ。だが、尾張名古屋が昔の城そのものでもっている、と堅く信じられているうちは、旧套墨守の日々も止むを得ないか。
追記:
上記にさらに論証を加え出典を明示し、学術論文「西小路・富士見原の競合と伊勢音頭の成立」として『郷土文化』第74巻第2号(通巻233号)に発表した。
歴史小説『恋せぇ!名古屋~伊勢音頭縁起』はこれに基づいている。