◎襤褸は着てても心の錦
昨日の朝方、行方不明の二歳児発見の報には、子どもをしっかりと抱いて歩く、赤のねじり鉢巻きのおじさんの後姿があった。夜のニュース。家に上がるよう勧められても「ボランティアで来ていますから」ときっぱり断った救助者。ボランティアの鑑のような振舞いの頭にはやはり赤のねじり鉢巻き。今日の「ビビット」のインタビューでほころびのあるザックの事を訊かれ、尾畠さん「まだ、新しい。たった38年です。(笑)日本は資源が少ないが、知恵がある」と即応された。かっこいい。物質主義への痛快な一撃。その頭にはやはり赤のねじり鉢巻き。無償の人助けの心意気はどんな花よりきれいだぜ!
◎傾奇者と笑われようと
顔を見せず籠に乗って移動するのが殿様のステイタスだった。家臣にとっては殿様のお目にかかる「御目見え」が済んでいるかどうかがステイタスだったのに、宗春は惜しみなく民に顔をさらした。しかも、古今東西の殿様がやらなかった姿だ。「遊女濃安都」から引用する。白牛を金四百疋=一両で買った、という記事に続いて、
「諸寺社御参詣の節、右白牛に鞍・鐙(あぶみ)置き候て、猩猩緋の装束、時々模様替り候へども、大方は右の通りにて、御衣服、これまた時々替り候へども、つねとても、御頭巾、唐人笠、五尺ばかりの御煙筒御持、奥御茶道衆その先かつぐ」
参詣の際には白牛に鞍と鐙を付けて、猩猩緋の装束、時々模様は変わるが大方は右のとおり。まとう物もこれまた時々替わるが頭巾、唐人笠、五尺(150㎝)くらいの煙管を御持ちになる。これは先端の雁首を茶坊主が担ぐ。
頭巾と唐人笠の説明は国入りの部分にある。
「浅黄の御頭巾・鼈甲の丸笠、右笠の縁、二方、巻煎餅のごとく、上へ巻き上がり、唐人笠の如く」
これは読んだごとく。浅黄と浅葱とは違う。浅葱色の頭巾では鼈甲色と合わない。因みに浅葱裏はダサい田舎侍の別称でもある。
宗春の姿を今に伝える「傾城妻恋桜」絵入狂言本の絵に着色してみた。元の模様は活かしたが千鳥と波しぶきに赤い空ではさすがに合わないが…。
長い煙管の意味を考えて管の部分が長いことに着目した。竹の管は羅宇:らう(らお)と呼ばれた。元々ラオス産の品が用いられたのが語源とも言われる。
粋な仁者よ
御三家さまは
白いお牛の背に揺られ
鼈甲笠に緋のお召
尾張長らう(羅宇)長煙管
この歌は筆者の創作。さて、宗春の赤(緋)にはどんな決意があったのだろう。
◎家中も染まる
当主に倣って供回りも派手になっていく。同じく「遊女濃安都」から。
「所々御成の節、御供廻りの衆中、ならびに御目見の輩、股引・半てん・はばきにて、膝の下、三里灸穴際までこれあり候衣服、両袖下、脊縫下、七八寸ほどわり、火打をひらひらと付、尤、火打紅縮緬、紅どんす(中略)思ひ思ひに出立、その花やかなる事、筆書にも言葉にもいひたらずと也」
御成りの際、下士も上士も股引・半纏・脚絆でひざ下まで丈がある衣服の両袖下や背縫いの下の部分を二十数センチほど割って赤い裏地を付けて火を打つように目を奪う。紅縮緬、紅緞子など思い思いに仕立て、その華やかなことは筆舌にも尽くしがたい。
やはり、ここでも赤が目を惹く決め手となっている。
◎街中に溢れる赤
後の江戸の街を描いた「熙代勝覧」では赤は子どもの着物か女帯くらいだ。リクルートスーツのように目立たない色で質素倹約に恭順の意を示していた町人たちは、殿さまや家来衆の赤をどう思っただろう。
宗春治世の享保元文期の名古屋を描いた図が享元絵巻だ。
図は七ツ寺あたり。一見して赤い着物が目立つ。名古屋に赤が溢れ、見た目が華やかになり、町人も嬉しそうだ。もう自分を隠す必要はない。派手な着物で目立って良いのだ。
傾奇者、奇矯だ、と笑われようと白牛の上の紅一点は、規制撤廃の強い意志と共に町人にしっかり受け止められ城下の隅々まで急速に広がったのだった。