◎六角形の錣(しころ)屋根
宗春の許可によって開発された新地は三つあった。それを順にご紹介したい。
残された絵図は少ない。以前のブログ「赤色に……」で紹介した享元絵巻にも新地が描かれている。名古屋市博物館が精彩画像で紹介している。
http://www.museum.city.nagoya.jp/collection/fine_portrait/lineup/new_screen3.html
西小路は左上部。現在の松原小学校~松原公園~東輪寺の西側に当たる。
そこを拡大してみると……
西小路芝居前の様子。赤い傘を差しかけられた女性は大夫か?檜皮ぶきに天水の載った屋根の隣に藁ぶきの粗末な屋根もある。ごちゃごちゃとして迷宮のように楽しそうだが、写実的というわけではない。町の広がりと賑わいを示すことが主眼として描かれているから致し方ないところではある。
ほぼ同じアングルで、あまり知られていない絵が次のもの。
漫画のような享元絵巻に比べると人が小さく書かれ建物が際立って大きく感じる。天水桶に加え「うだつ」まである立派な屋根。中央のカブトガニのような建物が西小路芝居だ。藁ぶき屋根はない。上部の書き込みを口語にする。
西小路は今は廃れて畑となった。もっとも栄える前も畑だったのだが享保十六年の冬の頃から縄張りができた。ついに三カ所の曲輪(くるわ)が現れ、その中の西小路というのは橘町の南の東輪寺の裏通りに堀を掘って作られた場所のことだ。最初は伊勢古市の妓楼の者一人が来て家を作り始め伊勢屋某と名乗っていたところ、段々建物が立ち並んで翌年の春には一部残らず出来上がった。芝居は西小路の町並みの中程西側にあり、その外観は他と異なり屋根が六角形に造ってある。かれこれ見聞きするにつけ、懐かしいことばかり。
出典は名古屋市史編纂資料として模写されたもの。元の「尾陽戯場(芝居)事始」は名古屋で上演された演劇を時系列で記したもので挿絵のオリジナルは尾張家家臣高力種信(猿猴庵)の筆によるという。
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000005-00001793
猿猴庵なら元絵に色がついていると思うのだが、現時点で筆者には調べ切れていない。
◎卍型交差点
右手の建物が西小路芝居より手前に迫り出してきているのをお気づきだろうか?
「なごやコレクション」に地図がある。
http://e-library2.gprime.jp/lib_city_nagoya/da/detail?tilcod=0000000006-00002032
この地図の来歴は後回しにして上の絵に描かれた辺りをクローズアップしてみよう。
星印の上空から見ると「尾陽戯場事始」の絵のアングルとなる。交差点を見ると鉤の手が組み合わさった卍型の交差となっている。どの道からも突き当りに見えて見通しが効かないが、進んでいくと正面に開け、右に開け、左に開けるわけだ。この辻だけでなく至る所が鉤の手となって「小路」の由縁となっている。名古屋城下は清州越しでできたので計画的に碁盤の目のような通りしかなかったから、迷路のような街づくりは新鮮だっただろう。
家に居ながらこんな貴重な史料を見ることができるとは良い時代になった、とつくづく思う。
◎猿猴庵の想い
地図によると絵の左右端の惣二階は「うら島屋」と「備前屋」という妓楼。芝居の右は酒屋と「なか屋」(屋号?)芝居の左は仕立て屋と煙草屋。浦島屋との間の細い路地は揚弓場に通じているのだろう。路地を伝わって「当た~り~」の声に続いて太鼓と嬌声が聞こえてきたのだろう。
享元絵巻の藁ぶきの屋根の辺りは地図によると端女郎の小屋らしい。売春のためだけの小屋掛けを猿猴庵は意図的に備前屋の大屋根で隠し、全体として建物を立派に大きく描いているのかもしれない。
図中の赤い印は享保二十一年四月に大火で焼失した建物を示す。賑わいは五年ともたず、また、元の畑に戻った。まさに夢の跡だ。
猿猴庵にとっては生まれる前の出来事だが、異口同音に語られる空前絶後の遊所の姿を常々書き残したく思っていたことだろう。しかし、藩士高力種信という立場で蟄居となった宗春の時代の遊所を描くのはいかにも憚られた。そこで芝居本の挿絵として西小路芝居を描くに当たり周囲の家並を立派にしたのだろう。人もそれほど多くなく動きが少なく小さいから感情は伝わらない。だから良しとされたのだろう。
ここで作者が問われるのは享元絵巻だ。みな楽しそうだ。石河家に伝来したという。描かせた当主は石河雅楽光当に相違ない。外には見せず、自分の若かりし日を独り懐かしんだのだろう。
◎「名古屋遊廓図」の来歴
地図には明治時代に複写された旨が記されている。新しい物なのか?
桃木書院図書館の蔵書が寄贈された神戸市に問い合わせたところ、神戸市図書館にはなかった。
国会図書館で検索したところ、西尾市岩瀬文庫にあるものに同様の文字が入っているようだ。しかも「寛延三庚午年八月写之」と書かれているようだから、西小路の大火があった享保二十一年からわずか十四年後に地図ができていたわけだ。「遊女濃安都」はそれより早く成立し、手書きの拙い地図が入っているから不思議はない。岩瀬文庫には、別の新地「富士見原」の地図がセットであるそうだ。これはネット公開されていないから見に行くしかない。やれやれ、と春樹さんなら書くところだが、実のところ、わくわくする。
次回は地図中の西小路芝居の枠外に書かれている部分を考察する。