◎盆踊りが中断
かくして盆踊りが始まった。
「町々踊、古今稀なる賑わい、衣装は様々見事なること也」(「遊女濃安都」)
あろうことか三日目の十五日の朝、江戸から訃報が届いた。宗春の五女八百姫が去る十二日に二歳で早世したのだった。因みに五月には三女の八千姫が六歳で亡くなっている。城下には触れが廻り、当面十七日までは町中踊りは停止となった。「もう一日あったのに!」衣装を新調した町人らは、不完全燃焼だったろう。単なる中断でなく突然の訃報だったから意気消沈の度合いは大きかったに違いない。
ところが、それに続いた御触れに彼らは歓喜することになる。七月二十四日と八月一日に盆踊りをやり直す、というのだ。七七日も経たぬ前の盆祭りの催行決定は宗春本人しか出せない。まさに民を慈しみ、自らは忍んだわけである。
「遊女濃安都」の筆はその時の賑わいを懐かしむ。
「両日、盆中の通りに町々躍り、揚挑燈、掛行燈、美を尽くし、別して本町一丁目三丁目は、両側、京都四条通り両芝居、太鼓櫓の掛行燈、町の中程、大屋根板持の上に置、家々の庇の上に、一枚看板、役者の名を書き、懸行燈、同六丁目中程は、十二月、年中世話事の影廻し致し置き候。同広小路四ツ辻には、古今大なる燈籠、諸見物群集す。京都川原の涼みの賑わいにも増したるべきとの評判。」
先代からは盆提灯にも火を灯すな、と禁じられていたのに、広小路と本町通の交差点に「大灯籠」が登場し、本町六丁目には「アニメ動画」である走馬灯が月ごとの年中行事を映していた、というのだ。
◎下屋敷の面影
高禄の武家は上屋敷、下屋敷、中には中屋敷を持つものがいた。後に記すかもしれないが、江戸戸山の尾張下屋敷は奇々怪々のテーマパークだった。名古屋の下屋敷も広大な回遊式庭園でその中に茶店や寺社、模擬店などがあり、なかなかの奇々怪々ぶりだったらしい。現在「御下屋敷跡」は生涯学習センター前に史跡の案内板があるだけで他に何の痕跡もないが、その敷地は広大で、南西端が今の名古屋園芸で、北東端は水筒先北交差点に至る。
黒は現在の施設だ。赤い部分は寺で、今も芸術創造センターの西側一帯には多くの寺が残っている。第二次世界大戦後、小川交差点から南に真っ直ぐな広い道路を通してお墓も移転したために寺域は切り刻まれてしまったが、「法華寺町筋」の通りは今も健在だ。だが、その名は今に残っていない。あの日、あれ程賑わったというのに……。
◎下屋敷でオールナイトで大踊り
さらに踊りは続いた。
先代継友が経費節減のため下屋敷内の一部の御殿を棄却していたが、宗春は、おそらく尾張を相続してすぐに、新築を命じた。それがめでたく竣工し、おそらくその祝いも兼ねて子どもを含む町々の踊り連を招き入れたのだった。
「遊女濃安都」に段取りが詳しく書かれている。前日に町の代表を招いてくじ引きで番を決めたという。
「二十二日朝六ツ時より初り、順々にまかり出、これを相勤める。七十九番までこれあり候」
二十二日に朝六時から始まって七十九番まであった。
「もっとも、町々だし作りもの、右番付を相印、暁七ツ頃までに終」
各町の山車や作り物に番号を記したので祭当日の午前四時にやっと終わった、と追記しているところを見ると参加者が書き足したのだろう。番号を記したのはコンペだったからだ。プレゼン前の熱気が伝わってくる。
「法華寺町の寺々に二町三町づつ宿札を打、休息いたし、番選にてまかり出、そのほか、町家にても、代官町・法華寺町上屋敷方へも、縁を以って幕を打、休息所とし、不明御門より鼠壁御殿前御門前迄、茶店大分出、大賑合なり」
法華寺町の各寺に二三町を割り振って控え所として出番に備え、町家や代官町や法華寺町の上の武家屋敷でも縁台の周りに幕を引き回して控え所とした。屋台の茶店がたくさん出て大賑わいとなった。不明(駿河)門は下屋敷南、鼠壁御殿は下屋敷内の北西あたりにあった御殿の事かと思われる。踊り手は正門から御殿の前庭へ踊り込んだのだろう。
「大人子供も帷子に金紋をき、衣裳に緋純子、島繻子、緋縮緬の類を着て踊申候」(「月堂見聞集」)
お殿様の御屋敷を訪れるのだから下に着る帷子から金紋入りで赤い緞子、縞の繻子、赤の縮緬など高級な衣装で踊ったという。
「品々作り物、掛行燈、笛、鼓、太鼓、三味線、皆々、自分町より道行打囃子にて参り候。見物群集す」(「遊女濃安都」)
自分の町から城下を囃しながらまさしく鳴り物入りで来たから、つられて見物も集まったわけだ。
蓬左文庫の「夢の跡」によれば西国の森右衛門という大男の相撲取りを張りぼてで作って担いだり、将棋の駒の灯籠を頭に載せるといった趣向があったという。
一等には金二両、すべての踊り連に褒美や尾張家重臣から料理が振る舞われた。以前と真逆の踊りの対応は、がっちりと町人の心を掴んだことだろう。
明六ツから始まった祭りが終わったのは翌日の四ツ(午前十時)というから、28時間ぶっ続けのダンスコンペティションだった。